「宝物」、大人になるとその基準が厳しくなってきたり、宝物を宝物として扱えていなかったり、そもそも宝物と認識できなくなっていたりしてしまっています。
代表的なものに家族とか同僚とか時にはお客様とかそういったものが連想されます。先輩から自分の妻を隣の奥さんだと思ってみると、恐縮でしょうがないだろと教えられたことがあります。それは、例えば食事の支度にしてもお隣の奥様が自分の家で作ってくれていたとしたら、申し訳なくてしょうがない。なのに自分の妻であれば、当たり前と捉えありがとうとか美味しいねなどという言葉すらかけない。
こうやって宝物だったモノたちは、埃を被りくすんで曇ってゆくのかもしれません。自分の体とか才能とかチャンスなんかもそうかもしれません。「自分なんて」「今更」「無理」とその可能性に蓋をしてしまうことは多くあります。それは自分という宝物の価値を大きくディスカウントしているのかもしれませんね。
ということで、その物差しになっている自分の環境ってとても大事なのではないかと思うのです。自分を取り巻く環境の中で「仕方なくしていること」はありませんか。これは宝探しの真逆の行動かもしれませんね。
仕方なくしていることにどんどん蓋をして行くことで、本当の宝がなんであったかに気が付けるのではないでしょうか。お盆休みはお忙しいかもしれませんが、そんな時間が少しでもあるといいですね。