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本日は酒田で、遺品整理と特殊清掃、そして消臭作業を行いました。
消臭の現場に入るのは久しぶりでしたが、今回はスタッフのトレーニングも兼ねて、一緒に入りました。
特に消臭作業というのは、薬剤やオゾンなど、人体への影響を考慮しながら行う繊細な仕事。
防護具の着用はもちろん、近隣への配慮や実施中の安全確認にも神経を使います。
一瞬の油断もできません。
それでも、空気がどんどん澄んでいくように、
部屋のにおいが少しずつ消え、光が戻ってくるあの瞬間。
まるで「部屋を丸ごと洗濯している」ような感覚は、何度経験しても爽快です。
作業を終えてマスクを外した瞬間、
澄んだ空気の中に残るわずかな清潔な香り。
それが、今日も誰かの“再出発の一歩”につながるのだと思うと、
この仕事の意義を改めて感じました。
今日は庄内地域産業振興センターで開催されている「経営計画作成合宿」に参加しています。
講師は、全国の中小企業の黒字化支援で知られる 古田土会計様。
その名は知っていたけれど、実際に話を聞いてみると、その本質の深さにうなってしまった。
当たり前のようで、なかなか実践できていなかったこと。
それは、「5年先を見据える」という視点。
そして、経常利益をいくらにするのか、給与はいくらにするのかといった「目的」を明確に定めること。
そこから逆算して、変動費を組み立て、売上を導き出すという考え方。
これまでの私は、なんとなく「売上を上げればなんとかなる」という根拠のない売上高至上主義のなかにいたように思う。
けれど今日、古田土会計講師から聞いたのは、まったく逆のアプローチ。
「売上は目的ではなく、結果である」という明快な言葉が、心に刺さった。
数字は冷たいものだと思っていた。
でも、利益と給与、そして未来の姿を見据えた数字には、熱がある。
そこに戦略と戦術が紐づき、会社の未来が“地図”として描かれていく。
この感覚は、経営の現場に立つ者として非常に大きい。
社長の思いつきではなく、チームで共有できる未来の方向性を描く。
経営は、夢を現実に変えるための設計図づくりでもあるのだと実感する。
これは素晴らしい一日になりそうだ。
この学びを、しっかりと会社の経営に落とし込んでいきたい。
この本、実は自分で買ったものじゃない。
友人から“押し貸し”された一冊、四毒抜きのすすめ。
正直なところ、最初はあまり興味がなかった。
タイトルを見た瞬間、「あ〜、また健康本ね」くらいのテンション。
積ん読コーナー行き確定か…とすら思っていた。
けれど、せっかくだからとページを開いてみたら、これがなかなか強烈だった。
“甘いもの・小麦・乳製品・植物油”
これらを「四毒」と呼び、体を蝕む要因としてズバッと切り込んでいく内容。
「え、これ全部、俺が日常的に食べてるやつじゃん!」と心の中でツッコミを入れながら読み進めた。
知識として一部は知っていたこともある。
けれど、この本はその“知ってた”を容赦なく実践レベルに引き上げてくる。
この勢いで、妻にもすすめてみた。
しかしこちらは見事に、積読コーナーへ直行。
まあ、そうだよな…と半ばあきらめつつ、グルテンフリーのクッキーを差し出してみたら、「これ、美味しいね」と一言。
その数分後にはスマホでポチッと注文していた。
健康も大事だけれど、“おいしさ”はやっぱり大事なポイント。
「身体にいい」だけでは心は動かない。
でも「おいしい」が加わると、急に行動が変わる。
押し貸しされたときは読む気がなかったのに、
気づけば僕は食生活を見直し、妻はクッキーを買っていた。
健康って、意外とそんな小さな一歩から始まるのかもしれない。
今日のブログは、
大人になると「ハイッ」と言えなくなる件について。
大人になると、経験や知識・プライドが邪魔をして素直に「ハイッ」と言えなくなる。
そればかりか、「それは自分にとって徳になるのか?」「意味があるのか?」と、頭で考え始める。
そうなると、否定的な言葉や断る理由のオンパレードだ。
ちょっと話は変わるけど、脳科学者の 西剛志 氏によれば、
物事がうまくいく人とそうでない人の違いを調べると、
うまくいく人ほど「自分は知らない」という謙虚な態度を持っているのだとか。
これは、脳は「それはもう知っている」と思った瞬間に、
それ以上学習する必要はないと判断して思考を止めてしまうため。
逆に「知らない」と思えば、脳は自然とアンテナを広げ、変化の準備を始める。
「知らない」というのは、成長の入り口なのだ。
これと同じように、「ハイ」という肯定の言葉には、
どうやってプラスに働かせるかを脳にプレッシャーとして与える力があるのではないか。
「やる」と言ってしまったからには、脳が勝手に道を探し始める。
あの一言は、未来を動かすスイッチだ。
人間、偉くなるといけない。
知ってる顔をしていると、脳がサボる。
「知らない」と素直に言える人の方が、ずっと伸びていく。
そして私は、
“知らない”を成長の始まりにそして「ハイッ」と言えるかっこいい大人になる!
今朝、通勤路から見上げた 鳥海山 は、6合目あたりまでうっすらと雪化粧をしていました。毎日見慣れた山の姿が白く装いを変えると、それだけで季節の移ろいを実感します。空気は澄み渡り、朝の冷気が頬をかすめる。ああ、いよいよ冬が近づいてきたなと、自然のほうから教えられるような朝でした。山の初冠雪は、私にとって“季節のスイッチ”のようなもの。冬支度への心構えが、ふっと芽生える瞬間です。
そんな朝の空気の中、会社では「クリーン作戦」を実施しました。これは、今週鶴岡市の生活ごみ収集業者12社が一斉に行っている「クリーン作戦Week」の一環です。当社からは26名が参加。工業団地の周辺を手分けしてゴミを拾い集めました。少し肌寒い中でしたが、皆で一列になって歩きながらごみ袋を手に、落ち葉の間まで目を凝らしての作業です。
結果として、集まったゴミの量はわずか500g未満。これは本当に嬉しい数字です。というのも、私は普段からこの周辺のごみを毎朝拾う“ひとりクリーン作戦”を続けてきました。以前はポイ捨ての多い常習箇所もいくつかありましたが、最近は目に見えて減ってきたと感じます。おそらく、地道な積み重ねの成果が少しずつ表れているのでしょう。
澄んだ空気と、白く輝く鳥海山、そしてごみの少ないきれいな道。小さなことかもしれませんが、こうした風景の積み重ねが、私の日常に確かな手応えを与えてくれます。季節の変わり目を感じながら、地域の景色を守る朝の時間。雪の山を見上げ、ほうきを手にするその瞬間に、何とも言えない清々しさがありました。
昨日は、爽やかで抜けるような青空が広がり、中々気持ちのいい天候でした。
我が家では、ストーブを出したり、薪を運んだりと、ちょっとした冬支度。心地よい汗をかきながら、季節の移ろいを肌で感じる週末となりました。
秋といえば、中国の故事に「天高く馬肥ゆる秋」という諺があります。日本では、空が高く澄み渡り、実りの秋を楽しむ――そんな美しい季節を表す言葉として親しまれていますが、元々の意味は少し違っていたようです。
この言葉は、中国北部にいた騎馬民族が、馬を肥やし、空が澄む秋に攻めてくることが多かったことから、「敵襲に警戒せよ!」という注意喚起の言葉だったとか。
「いい時計してますね」という言葉が、実は「そろそろ帰ってほしい」という裏のメッセージだったりするように、言葉というのは表と裏を持つことがあります。
そこに隠された真意をあれこれ考えると、かえってややこしくなってしまうこともありますが、こうした故事に潜む背景を知ると、何気ない一言にも奥深さを感じますね。
今日のブログは、8月のお盆以来となるお墓参りをしたお話です。
世間一般でいえば、2か月ぶりというのは特別“久しぶり”というほどではないのかもしれません。
ただ、私自身は「月に1度はお墓参りをする」という目標を立てていたので、今年は少し足が遠のいていた感覚があります。
その理由は「熊」。
私のお墓は森の中にあり、近ごろはこの辺りでも熊の出没が相次いでいます。
お盆や彼岸の時期を過ぎると墓地はひっそりと静まり返りますから、一人で行くのはちょっとした勇気がいるのです。
これまでは、朝の出社前に立ち寄るのが習慣でした。
でも熊の出現率が高いのは朝夕。そこで今日は日中にお参りしてきました。
お墓の前に立つと、そこには9月の彼岸のときに両親が備えた花が、一輪だけ咲き残っていました。
そして足元に目をやると、見慣れない黄色い小さな花。
茎をたどっていくと、それはお墓の下の地面からすっと伸びていて、調べてみるとシマカンギク(野菊)でした。
花言葉を調べると、「あなたを忘れない」。
ここに眠る祖父母からの「忘れてくれるなよ〜」というメッセージなのか、はたまた「お前のことをいつも応援しているよ〜」というエールなのか、その花の意味するところは分かりません。
けれど、その黄色い花を見ていると、なんとも言えない勇気をいただけるのでした。
「なんか俺、来ている気がする!」――そんな根拠のない自信がふっと湧いてくるのです。
てなことで、お墓で「出たー」と言えば幽霊ではなく熊という時節柄となりましたが、
元気にお墓参りを続けていこうと思うのでした。
今日のブログは、「覚悟」について感じた小さな気づきの話です。
これまでの私にとって覚悟といえば、どこか“崖っぷち”のような場面で必要になるもの――責任とか我慢とか、命懸けとか。とにかく重たいイメージでした。
でも最近、少し違う角度からこの言葉をとらえ始めています。
覚悟って、もっと日常の中に、軽やかに存在していいんじゃないかと。
もっと言うなら、覚悟とは“目的が明確だからこそ”持てる境地。
誰のために、何のために――その目的を心に掲げ続けていれば、覚悟は状況に左右されず、静かに湧いてくる。
覚悟は、目的の隣にあるもの。いつも寄り添い、支えるようにそこにある。
覚悟があるからこそ、やり抜くことができる。
そしてどんな事実であっても、それをポジティブに受け止めるしかない世界が広がる。いや、ポジティブに捉えることが“できる”のです。
心の中心にあるもの。それが覚悟。
レジリエンスという言葉がやたらと飛び交う今の時代。
それを「自分自身で操る力」が求められる現代。
でもその根っこには、必ず覚悟がある。
この覚悟がなければ、レジリエンスはただの理想論で終わってしまう。
だからこそ、覚悟は特別な瞬間に振り絞るものではなく、目的の隣に日常の真ん中で、静かに灯しておくものなんだと思うのです。
昨日、推し活で友人と横浜に行っていた息子が帰って来ました。
今回の旅は、1泊2日の小さな冒険。
移動は飛行機、現地ではメトロ。
友人との初めての遠征で、計画も準備もすべて自分たちでこなしました。
少し緊張していたようですが、思いのほかスムーズに旅を楽しめたようです。
それにしても、田舎者の私が初めて東京に行ったときなんて、空港からは当然のようにタクシー移動。
「地下鉄?無理無理!」と心のシャッターを下ろしていたタイプです。
それを思うと、スマホ片手にメトロを乗り継いで目的地にたどり着いた息子、なかなかやるじゃないかと素直に思いました。
ところが
宿泊先のホテルで、ちょっとしたハプニングがありました。
息子は歯科矯正の器具を使っているのですが、朝食のときに外したそれを、なんと食器と一緒にテーブルに置き忘れてしまったのです。
慌ててホテルのスタッフさんに探してもらい、すぐに妻にも連絡。
この矯正器具、なくしてしまうと再製作に数ヶ月かかる可能性がある大事なもの。
でも妻は、慌てるでも怒るでもなく、
「仕方がない」と一言。
ホテルにこちらから電話をかけ、
「もしチェックアウト後に見つかったら送ってください。なければ諦めます」
と、さらりと対応したそうです。
この落ち着き、母は強し、です。
結果、チェックアウトぎりぎりで無事発見。
息子は安堵し、ホテルの方々にも深く感謝。
スタッフさんが本当に一生懸命探してくださったそうで、その対応には頭が下がります。
実は、私たちの片づけの現場でも、お客様が必要なものをうっかり捨ててしまって処理場の中を探すことがあります。
見つかる時もあれば、見つからない時もある。
先日は自転車を届けたこともありました。
「いや、間違うレベルじゃないでしょ!」とツッコミを入れながら(笑)、それでも“見つかった”時のあのホッとした顔、忘れられません。
失敗って、その瞬間は焦るけど、あとから振り返るとちょっと笑えて、いい思い出になったりします。
息子の小さなハプニングも、きっとその一つになるのでしょう。
こうやって少しずつ、親の手を離れていくんだなぁと、ちょっとしみじみした夜でした。
今日のブログは、家族それぞれの小さな旅の話。
息子は推し活で横浜へ、妻と末の娘は仙台へお買い物。
そして、お留守番の私はというと、会社に行って、思いっきり仕事です。
仕事といっても、現場ではなく書類の整理。
ここ30年分の紙の書類をひっくり返して、分類・整理・目録づくり。
データ化の下準備で、まるで“タイムカプセル”を開けているようでした。
実はこの作業、休みの日じゃないとできないんです。
誰もいない静かな事務所で、思いっきり書類を広げて黙々と整理する。
これがもう、楽しくて仕方がない。
仕事というより、半分趣味みたいなもの。
膨大な書類たちが、少しずつ整理されていくその過程が、たまらなく気持ちいいんです。
それでも時間との戦いで、精度を上げていくには、何度も繰り返し手を入れていく必要がある。
だけど、その繰り返しすら、私にとってはちょっとした楽しみだったりします。
今朝、いつものように朝食をとっていると、末の娘が颯爽と起きてきた。
普段は私が出勤する頃になっても布団の中でぬくぬくしているのに、テスト期間でも総体の朝でも早起きしなかった娘が、なぜ今日はこんなに早いのか。
不思議に思って「どうしたの?」と声をかけると、ノイズキャンセリングのイヤホンをしっかり装着して、見事なスルー。
妻も同じように首をかしげ、娘の口からこぼれる小さな声を盗み聞きしてみると……どうやら今日は「卒業アルバムの写真撮影」があるらしい。
なるほど、それで朝からコンディションを整えていたのか。
もちろん髪型は校則の範囲内、メイクは禁止。
娘としては「校則ギリギリの美しさ」を狙う作戦らしい。
普段はスマホで撮る“盛れた”写真に慣れきっている世代。
アルバム写真にはもちろん加工(少しはしていると思うけど)なんてない。
盛った写真より、素顔が残るこの一冊を、いちばん楽しみにしている。
現在ダイエット中です、我が家の犬が。
獣医さんのところで「太り過ぎ!」と厳重注意を受け、
このままだと長生きできないよ!と言われ、本気でダイエットに取り組んでいます。
犬種はペキニーズ。もうシニア犬なんですが、とにかく散歩が大嫌い。
子犬の頃からリードを取り出すと、ソファの下に隠れて出てこない。
散歩の嫌いな犬なんているのだろうか…と、毎回首をかしげています。
そのくせ、私たちが食卓を囲むと、椅子の下にぴったり張りついて、
目をパチクリさせながら「何かちょうだい!」とアピール。
あの目で見つめられると、つい何かあげてしまう。
もらえないとわかるまで、何度でもおねだりを繰り返すのです。
「散歩嫌い × おねだり上手 = 肥満」
……結果は言うまでもありません。
獣医さんやトリマーさんに聞くと、
どんなに注意しても“可愛さ”に負けてしまい、
ダイエットが続かずにヘルニアになってしまう子も多いのだとか。
思えばこれは犬に限った話ではないのかもしれません。
子育ても、人との関係も、
愛情のかけ方を間違えると、
それは相手の「幸せ」から遠ざかってしまう。
本当にその人(犬)の幸せを願うなら、
ときには「可哀そう」と思う気持ちをぐっとこらえて、
長い目で見た“幸せの形”を信じてあげることが、
いちばんの愛情なのかもしれません。
最近、意識していることがあります。それは「心を柔らかく」ということ。
どうも自分の心(いや、思考というべきか)は意外と頑固で、知らず知らずのうちに先入観や思い込み、決めつけに縛られているようです。
「きっとこれはこういう意図があるに違いない」
「この言葉の裏には何か意味があるはずだ」
そんなふうに、まっすぐ素直に物事を受け取ることができない。
一言言いたくなるけれど、実際に口にするわけでもなく、ただ一人でモヤモヤしている。
そして、そのモヤモヤを何とかしようと言葉を発したとしても、結局それは自分も相手も幸せにしない。
自分を正当化したくなることに、何の徳もないはずなのに、なぜか「自分は正しい」と証明したくなる。
不思議なものです。けれど、きっとそれが人間というものなんでしょう。
そんな自分の心の癖に気づいたとき、ふと思いついたのが“ゴムボールのような心”というイメージ。
イライラやモヤモヤが生まれたとき、心がゴムボールだと想像してみるんです。
すると、相手とぶつかっても、衝撃を吸収して、やわらかく返すことができる。
「負けるが勝ち」というよりも、そこにはもはや勝ちも負けもない。
ただ、自分のつまらぬこだわりや小さなプライドから解放されるだけ。
それだけで、驚くほど気持ちが軽くなるから不思議です。
心を柔らかく
それは、他人に優しくするためだけじゃなく、自分を少し楽にしてあげるための魔法の言葉かもしれません。
こんな話を聴いた。
苦難というのは、「我よし」の是正であると。
「我よし」とは、わがままのこと。
自分の思い通りにしたい、自分が楽をしたい、認められたい——。
そんな思いが心の奥に積もると、いつしか私たちは、自分の都合でしか世界を見られなくなる。
その我を正そうとする働きこそが、苦難だと思う。
人は、苦しみから逃れたいと願う。
けれど、苦難は“罰”ではない。むしろ、“磨き”だ。
その中で「このままではいけない」と心の底から願ったとき、
奇跡は静かに起きはじめる。
奇跡とは、外から舞い降りるものではなく、
内から湧き上がる「変わろうとする力」なのだ。
人は切羽詰まらなければ、本気になれない。
刀の付け根にある“切羽(せっぱ)”は、刃と柄をつなぐ小さな金具。
ここが詰まりすぎると、刀は抜けない。
人もまた、思い込みや我が強すぎると、動けなくなる。
ほんの少しの“遊び”余白があるからこそ、刀は抜け、心も動く。
余白とは、他人を思いやるスペースであり、自分を省みる静けさでもある。
奇跡がなかなか起きないのは、
私たちがその余白を失ってしまうからだ。
我を手放し、心の純度が高まるとき、
世界はそっとこちらに歩み寄ってくる。
その瞬間を人は“奇跡”と呼ぶのだろう。
奇跡は遠くの出来事ではない。
それは、切羽の先——
我を削ぎ落とし、心に余白を残したその静かな瞬間にこそ、
確かに息づいている。
今日は、鶴岡市内のとある空き家整理に伺いました。
依頼者さんは神奈川から帰省されていて、「実家の片付けもそろそろ終盤です」と笑顔でお話ししてくれました。
実はこの家、販売からわずか10日で買い手がついたそうです。全国からWEBで空き家を探す人が増えていて、鶴岡の物件にも次々と問い合わせが来るのだとか。画面越しの出会いから、次の住み手へと受け渡されていく。そのスピード感に、私も驚かされました。
作業の合間に「ウチの娘が横浜駅で働いています」と話したところ、「横浜駅もどんどん変わっていますよね」と会話が広がり、親同士のように盛り上がりました。
さらに、ご両親が買った立派なお仏壇を処分することになり、「この飾りだけ持って行こうかしら」と依頼者さん。そこで私は、「お盆や彼岸の時だけでも出して飾ってあげると、きっと喜んでくださるのではないでしょうか」とお話しすると、「そうね」と明るい表情をされていました。暮らしの形は変わっても、大切なものは受け継いでいけるのだと感じます。
家を整理することは、モノを減らすだけではなく、そこに流れた時間や家族の思い出を次につなぐ作業でもあるんだと、改めて思った一日でした。