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こんな話を聴いた。
苦難というのは、「我よし」の是正であると。
「我よし」とは、わがままのこと。
自分の思い通りにしたい、自分が楽をしたい、認められたい——。
そんな思いが心の奥に積もると、いつしか私たちは、自分の都合でしか世界を見られなくなる。
その我を正そうとする働きこそが、苦難だと思う。
人は、苦しみから逃れたいと願う。
けれど、苦難は“罰”ではない。むしろ、“磨き”だ。
その中で「このままではいけない」と心の底から願ったとき、
奇跡は静かに起きはじめる。
奇跡とは、外から舞い降りるものではなく、
内から湧き上がる「変わろうとする力」なのだ。
人は切羽詰まらなければ、本気になれない。
刀の付け根にある“切羽(せっぱ)”は、刃と柄をつなぐ小さな金具。
ここが詰まりすぎると、刀は抜けない。
人もまた、思い込みや我が強すぎると、動けなくなる。
ほんの少しの“遊び”余白があるからこそ、刀は抜け、心も動く。
余白とは、他人を思いやるスペースであり、自分を省みる静けさでもある。
奇跡がなかなか起きないのは、
私たちがその余白を失ってしまうからだ。
我を手放し、心の純度が高まるとき、
世界はそっとこちらに歩み寄ってくる。
その瞬間を人は“奇跡”と呼ぶのだろう。
奇跡は遠くの出来事ではない。
それは、切羽の先——
我を削ぎ落とし、心に余白を残したその静かな瞬間にこそ、
確かに息づいている。