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高校一年の息子が、夏休みに突入した。
部活とスマホ三昧の日々に、学校からひとつだけ渡されたミッション——読書感想文。
しかも「新潮文庫の100冊から1冊選んで書け」という条件付きだ。
普段、本なんてまるで読まない息子。
まずやったのが、iPadに「何読めばいい?」と聞くこと。
令和の読書はAI頼みか、と苦笑いしつつも、ちょっと懐かしくなって私も100冊のラインナップを見てみた。
あった、あった。「車輪の下」「坊っちゃん」「罪と罰」……
あの頃と変わらぬ顔ぶれもいれば、「博士の愛した数式」「ツナグ」なんて、時代を感じる新顔たちも並んでいた。
悩む息子を前に、私が“初めての純文学”として選んだのは、夏目漱石の「こころ」。
高校生が読むには、やっぱりこれだろう。
あの独特の重たさ。静かに沈んでいくような読後感。
「なんかモヤモヤするんだけど…」と彼が言ってくれたら、父としては満点なのだ。
意気揚々と本屋に行くと——「こころ」、まさかの品切れ。
この国に「こころ」がないなんて、と少しばかりセンチメンタルになる父。
それでも手ぶらでは帰れない。
次なる選択肢として手に取ったのは、三島由紀夫の「金閣寺」。
ちょっとハードル高いか?と一瞬迷ったけれど、
美と破壊と、言葉の強度。
感情が揺さぶられる読書体験なら、きっとこれもまた“入口”になる。
そう信じて帰宅し、本を差し出した瞬間、息子が一言。
「わぁ、つまらなそう!」
……心、折れるかと思った。
いやいや、グッと堪えて思いなおす。
いつか彼はきっとわかるはずだ。
この装丁の重み、三島の文体の鋭さ、そして人間の内面の奥深さ。
「これを選んだお前のセンス、最高じゃん」と未来の誰かが褒めてくれる日が来る。
そんな小さな期待をこめて、父は今日も黙って見守るのである。「この道具が作られた頃と、今とでは、時代も価値観もまるで違う。」
古道具を見つめていると、ふとそんなことを思います。
手に取ったその椅子、棚、器どれも昔は“現役”でした。
毎日の暮らしの中で使われ、人の手に馴染み、当たり前のようにそこにあったもの。
けれど今、その当たり前はすっかり変わりました。
暮らしのスピードも、道具の役割も、物に対する価値観も。
それはつまり、その道具を作った職人の「意図」が、
もう現代には通じない世界になってしまった、ということでもあります。
でもだからこそ、私たちの出番です。
時代が変わり、用途が変わり、意味が変わったとしても
私たちが新たな視点と感性で、その道具に新しい意図を与えれば、
それは再び“生かされる”のです。
たとえば、座れなくなった古い椅子に草花を飾る。
使われなくなった木箱を、店先のディスプレイにする。
本来の役目を終えたものに、まったく新しい意味を宿らせる。
それは「使い回す」ことではなく、「生かす」こと。
20年テーマに掲げてきた「人・物を生かす」という言葉が、
まさにこの取り組みに重なります。
作った人が届けたかった“意図”を越えて、
いま、別の誰かの手で“新しい命”が吹き込まれる。
そこに気づき、感謝し、行動することで、
私たちの暮らしもまた、少しだけ豊かになっていくのかもしれません。就職して初めてのボーナスで買った、マランツのアンプとB&Wのスピーカー。
当時の私は、自分の部屋で音楽を聴く時間が、何よりも大事だった。
でも、子どもが生まれ、家がにぎやかになっていくにつれて、
その大切な時間も、機材ごとどこかに追いやられていった。
気がつけば、音楽を聴くのはもっぱら車の中。
そしてあのスピーカーたちは、最後には公共施設に寄付された。
いい人生だったよな、などと感謝すらして。
それから25年。
久しぶりに、スピーカーを買った。
オーディオテクニカのBluetoothスピーカー。30W。
昔ほど大きくはないけど、ちゃんと“鳴る”。
コードも要らない。スマホひとつで、すぐに自分の世界ができる。
設置場所はもちろん、自室。
音楽を流してみると、驚くほど気持ちがいい。
久々に、音の中に身を沈める感覚。思わずボリュームを少しだけ上げてしまう。
すると、部屋にこもりがちだった息子と娘が、音に引き寄せられるように顔を出してきた。
ふたりとも無言で入ってきて、リズムに合わせて首を縦に振っている。
「最高じゃん!次、俺選曲していい?」と息子。
娘も、自分のスマホをBluetoothに接続しようとしている。
25年ぶりのスピーカーが、まさか子どもたちとの小さな橋渡しになるとは思ってもいなかった。
が、ひとつ問題がある。
スピーカーが届いて以来、妻の機嫌があきらかに悪い。
「なんでいまさら、そんなに音を鳴らすの?」
「子どもたちより、あなたのほうが青春してるじゃない」
「ていうか、うるさい」
…ごもっともである。
けれど、心のどこかで思ってしまうのだ。
デカイ音を鳴らすと、自分が少しだけ“自分”に戻れる。
だから、ちょっとくらい許されないだろうか。
いや、…ダメかもしれないな。
今日は、鶴岡イノベーションプログラム「TRIP2025」のキックオフセッションに参加してきました。
このプログラムに昨年参加してから、自分の中にあった“やりたい”が少しずつ輪郭を持ち始め、チームで試行錯誤を重ねながら形にしてきました。
一緒に取り組んだのは、「古今cocom」の富樫あい子さん。今では、ビジネスパートナーとしても心強い存在です。
今回はその体験談を話す側として登壇。
あい子さんから、昨年の取り組みと現在の活動についてお話しして頂きました。
昨年12月の最終プレゼンを経て、今年4月に実際の事業としてスタート。
あの時間があったからこそ、今の一歩一歩があります。
質疑応答では、意外にもプログラムに関することではなく、私たちのビジネスに関する質問が次々と出て、今年のチャレンジャーたちの視点の鋭さ、本気度の高さがよく伝わってきました。
昨年の私たちも、“想い”だけでなく、“届け方”と“続け方”をとことん考えました。
その積み重ねが、「0から0.5を生む」ということだったのだと、今は思います。
TRIPは、想いを育てる温室のような場所。
ひとりでは届かなかったところまで、仲間と一緒に手を伸ばせる。
こんな素敵なプログラムは、他にはない。
今日は、常日頃の罪滅ぼしということで、妻とふたり、岩手の西和賀町へ小さな旅に出た。
目的地は、錦秋湖を見下ろす高台にひっそりと佇む「ネビラキカフェ」。
平地では35℃を超えるような真夏日だったが、ここは別世界。
時おり風が吹き抜け、28℃を切るくらいの心地よさ。
湖を望むテラス席に腰かけると、蚊取り線香の香りがふわりと漂ってきた。
その瞬間、ふたりとも顔を見合わせて笑う。なんだか、おばあちゃん家に遊びに来たみたいだった。
このカフェは、古い民家をDIYでリノベーションしたものらしい。
ご夫婦がオーナーで、店を切り盛りするのは、遠くの街から集まった若いスタッフたち。
その雰囲気は、どこか学園祭の準備中のようなわくわく感があって、完成しすぎていないのが、かえって心地いい。
耳を澄ませば、遠くで電車の音がかすかに聞こえる。
湖畔の風景と相まって、その響きが時間の流れまでもゆるやかにしてくれた。
テラスの脇ではサルナシの葉が揺れていた。秋には実をつけるらしい。
インバウンドの旅人も、ここではすっかり溶け込んでいた。
コーヒー片手に湖を見つめながら、ひとときの静寂を楽しんでいる様子が印象的だった。
ネビラキカフェには、観光地らしい派手さはない。
けれどそのぶん、誰の心の奥にもある“あの頃”を、そっと思い出させてくれる。
子どもの成長には、「スモールステップで成功体験を積ませること」と、「あえて失敗を経験させること」、どちらも大事だってよく聞きます。
でも実際のところ、どっちのほうが大切なんでしょう?
そんな話を、ある子育てセミナーに参加した方から聞きました。
質問コーナーでこのテーマが出たとき、会場もちょっとざわついたそうです。
すると、登壇していた先生が、こう答えたんだそうです。
「どちらも大事。でも、一番大切なのは“それを本人が選んだかどうか”なんです。」
この言葉、すごく腑に落ちました。
成功するにしても、失敗するにしても、
それが「自分で決めたこと」かどうかで、意味がまるで違ってくるんですよね。
やらされて成功しても、それは誰かの成果。
失敗しても、「やらされたことがうまくいかなかった」だけになってしまう。
でも、自分で「やってみよう」と決めた結果なら、たとえ失敗しても、それはちゃんと自分の経験になる。
次はどうしよう、って考える力にもなるし、小さな成功は、自信として残っていく。
実は今、我が家にも受験生がいまして。
進路のこととなると、ついこちらがあれこれと気を揉んでしまいます。
でも最近、「選択肢を示すところまでが親の役目かな」と思うようになりました。
どこを目指すか、どう動くか。
その先は本人の選択に任せていく。
そうやって少しずつ、自分の人生を“自分で選ぶ”という感覚を持ってもらえたらと思っています。
親ができるのは、「どっちが大事か」ではなくて、
その選択を、信じて見守ることなのかもしれませんね。今朝、スマホに通知が届いた。
「熱中症警戒アラート・山形県全域」
いよいよ夏本番。
空の色も、空気の重さも、昨日とは違う。
この時期、私たちの現場は空家の家財整理でピークを迎える。
向かうのは、長い間誰も住んでいない家。
エアコンどころか、電気すら通っていない。
窓も開けられず、空気がこもった室内での作業は、まるで蒸し風呂。
押し入れや天井裏に手を伸ばすたび、汗が滝のように流れ落ちる。
そんな中で導入した充電式の扇風機が、本当にありがたい。
風があるだけで、気持ちの張りつめ方が全然違う。
この小さな風に、ずいぶん救われている。
汗だくで作業しながら、頭の中にはいろんなことが浮かんでは消えていく。
娘の進路のことだったり、
今度行こうかと考えている、ロケーションが最高のカフェのことだったり。
やりたいこと、やらなきゃいけないこと、うまくいってること、
うまくいってないこと——。
その中でふと、ハッとした。
「俺、思い込みが激しいのかもしれないな」と。
何かがうまくいっていないとき、だいたいそうだ。
自分の意見に固執して、
「絶対にこうだ」と譲らなかったときに、物事はうまくいかない。
なのに、なぜそうまでして自分を正当化しようとしたのか。
根拠なんて、実はどこにもなかったのかもしれない。
今日は、ちょっと違った。
「相手の意見に、乗ってみようか」
そんなふうに思えた自分が、少しだけ、うれしかった。
片づけをしながら、自分の中の思い込みが、
汗と一緒にほどけていく。
この仕事、やっぱりただの整理じゃない。
自分を整える時間でもあるのだと、改めて思う。今年の息子の誕生日、何を贈ろうかと迷って、ちょっと変化球を投げてみた。
選んだのは、Nujabesのレコード。
いまどきの高校生にレコード? しかもプレーヤーもないのに?
と、自分でも思ったけれど、彼の好きなアーティストだし、なんとなく「これだな」と思った。
手渡した瞬間の反応が今までで一番良かった。
ジャケットを開けて、「うわ、これすんごくいい」と。
普段はスマホのサブスクで音楽を聴いているくせに、「これをレコードで聴くのがクールなんだよ」なんて、ニヤリと笑っていた。
で、もちろんプレーヤーがないわけで。
今、アンプとターンテーブルとスピーカーの入門セットを準備中。
だけど、息子の部屋じゃなくて、リビングに置くつもりだ。
狙っているのは、“一緒に聴く時間”をつくること。
会話があってもなくてもいい。ただ、同じ音楽を、同じ空間で聴く。
そんな時間が、今の親子にはちょうどいいんじゃないかと思ってる。
プレゼントって、モノを渡すことじゃなくて、その先の体験ごと贈ることだと思う。
レコードはその入り口でしかない。
でもそのおかげで、これから一緒に過ごせる時間が少し増えるなら、
それが一番うれしい。
彼が子どもでいてくれる時間は、あと2年半。
レコードの針を落とすその時間が、僕らの思い出になってくれるといいなと思ってる。20年前、西洋占星術の先生に言われた言葉があります。
「あなたの人生のテーマは “消去と刷新” ですね。」
あのときは正直、よくわからなかったけれど、不思議と今も心に残っている言葉です。
ふり返ってみると、私はずっと「整理」と関わる人生を歩んできたように思います。
ごみ処理や家財整理といった仕事を通じて、
そして会社では、組織や仕組みを見直し整える役割を担ってきました。
地域の団体などでも、自然と「整える人」になっている気がします。
「整理」とは、不要なものを取り除くこと。
けれど、その“不要”を見極めることには、慎重さが必要です。
ときに、それが誰かの大切な思いや、長年守ってきた価値観に触れることもあります。
その過程で、無意識に誰かを傷つけてしまうこともあるかもしれない。
だからこそ、丁寧に、誠実に向き合わなければと思っています。
でも実際には、「ありがとう」と言ってもらえることの方が多い。
私は、生み出す人というよりも、あるものを整え直す人。
混乱や滞りの中から、本来の形や流れを見出していく。
そんな役割が、自分らしさなんだと思っています。
もちろん、整理するというのは簡単なことではありません。
けれど、その過程には面白さも、やりがいもある。
大きな課題も、いきなり全部は動かせない。
でも、細かく分けて、今日できる一歩を進めていく。
そんなふうに、少しずつ整えていく人生なんだろうなと、最近よく思います。すべての人間は、オリジナルだと思う。
誰一人として、まったく同じ人生なんて歩んでいない。
だから、本当は誰かの“正解”をなぞる必要なんてないのかもしれない。
3代目という立場で会社を受け継いでから、
私はずっと「あるべき姿」を探していた。
経営者って、こうあるべき。
リーダーって、こんなふうじゃないと。
そんな“正しさ”に、無意識のうちに振り回されていた気がする。
成功している誰かを見ては、自分に足りないものを数えていた。
けれどある日、ふと気づいたんです。
その“あるべき”は、他人の航海図であって、
私が進むべきルートとは限らないんじゃないか、と。
じゃあ、何を信じて進むのか。
それはやっぱり、自分の心がどこを向いているか。
そして、自分の持ち味。“本領”をちゃんと発揮できているか、なんだと思います。
これからの私は、流れに逆らわず、でも流されもせず、
静かに、自分の中の“芯”を信じて、舵を取っていきたい。
成功を焦って追いかけるのではなく、
与えられた流れの中で、自分らしく在り続けること。
それが、今の私にとっての「正しさ」なんだと思います。
50歳を前にしてようやく、そんなふうに思えるようになった。
これからの人生は、自分の答えを、自分の言葉で語っていこうと思う。人生には、どうしても避けられない出来事がある。
突然の災害、身近な人の病、思いがけない別れ。
努力してきたことが崩れることもあるし、理由のわからない試練にぶつかることもある。
そんなとき、心は簡単に揺れる。
「なぜ、こんなことが起きるのか」
「何を間違ったんだろうか」
そう考えてしまうのは当然だ。
でも、ひとつだけ信じていたいことがある。
人生に起こることには、すべて意味があるということ。
その意味がすぐにわかるとは限らない。
苦しい渦中にいるときは、とてもじゃないけれど受け止められない。
それでも、そんなときこそ大切なのは、目の前の小さなことに心を向けること。
たとえば、挨拶をする。
深呼吸をして、自分の体に意識を戻す。
汚れた場所をひとつ、きれいにする。
そんな些細なことが、やがて心の軸になる。
感情に振り回されそうになりながらも、日々を丁寧に生きる。
ただそれだけのことが、やがて光を呼び込んでくれる。
「運が開ける」とは、
棚からぼたもちが落ちてくるような話ではない。
誰かから与えられるものでもない。
自分の人生を、自分の意思で引き受けること。
その姿勢の先に、運は自然と拓かれていく。
人生の波にのまれそうなときほど、
静かに、丁寧に、小さなことを大切にしよう。
それが、未来を変える力になるから。アフリカに伝わるとされる、あるカバの話を紹介したい。
ある日、カバが川を渡っていると、突然、何かの拍子に片目を水に落としてしまった。
それに気づいたカバは、驚き、慌てふためく。
「大変だ、目がなくなった!」
バシャバシャと川の中をかき回し、必死に探す。
水をかき、足で蹴り、あちこちをひっくり返しながら探し続けた。
けれど、目は見つからない。
焦れば焦るほど、川の水は濁り、底は見えなくなっていく。
カバはやがて、息も絶え絶えになり、その場に座り込んだ。
そのときだった。
かき乱されていた川の水が、ゆっくりと静まり、澄んでいく。
濁りが引いて、底が見えるようになったその瞬間、
カバは自分の片目を、すぐそばに見つけたのだ。
焦っているときには、見えるものも見えない。
呼吸おけば、見失っていたものに、ふっと気づけることがある。
そんな教訓を含んだ、静かで美しい寓話だ。
私たちも、日々の生活のなかで、
何かを「なくした」と感じてバタバタと探し回ることがある。
時間や気持ちの余裕、自信、信頼……。
失ったと思って必死になるあまり、
余計に状況を悪くしてしまう。
けれど、そんなときこそ一呼吸。
無理に動かず、まずは立ち止まってみる。
すると、不思議と霧が晴れるように、
本当に大切なことが見えてきたりする。
今日もうまくいかないことがあるかもしれない。
けれど、焦らず、騒がず、カバのようにすとんと座ってみよう。
澄んだ水の中に、思いがけない“答え”が潜んでいるかもしれないのだから。ありがたいことに、
家財整理のお仕事、猛烈にいただいております。
ご高齢の親御さんの施設入居、相続後の実家整理、空き家の売却準備など
それぞれに背景と物語があって、私たちはそのひとつひとつに向き合いながら、
丁寧に、誠実に、汗をかいております。
それにしても、この暑さ。
真夏の空家や屋根裏は、まるで灼熱地獄。
現場では、帽子・水・塩飴が命綱です。
そして正直に言うと…
実は今回の案件、3月にはお見積りしてたんです。
あの涼しい頃に作業できていたら、身体にはちょっとやさしかったな〜、なんて。
でも、スケジュールの都合もあるし、なにより「今やらなきゃ」というお客様の事情もよく分かる。
だからこそ、しっかり応えたいと思っています。
今週も、スタッフ総出で現場対応中。
ちょっとスケジュールが心配になるほどですが、ひとつひとつ、しっかりと仕上げていきます。
「まだどうしたらいいかわからないけど…」という段階からでも、
お気軽にご相談くださいね。
私たち、お片づけのプロ集団が全力でサポートします。
今日も空を見上げてから、車に乗り込みます。
ああ、あの風がちょっとだけ、涼しく感じられた気がする──なんて思いながら。「継続は力なり」とはよく言うけれど、
実際に何かを続けている人は、案外少ない。
なぜ、多くの人が途中でやめてしまうのか。
よく挙げられる理由としては、たとえば
① 目標が曖昧
② 結果が出ないことへの焦り
③ 周囲からの反対や無理解
④ 完璧主義ゆえの自滅
なるほど、と思う。
どれも、胸に覚えがある。
「これ、何の意味があるんだろう?」と立ち止まりそうになったり、
アクセス数が伸びなくてモヤモヤしたり、
「そんなの続けてどうするの」と言われて心がぐらついたり。
そして何より、“ちゃんとやらなきゃ”が重荷になる瞬間がある。
それでも、僕は今、もうすぐ600日。
ブログを毎日書いている。
正直、ここまで続くとは思っていなかった。
なぜ続けられたのか
それはたぶん、「絶対」をやめたから。
「今日書けなかったら、明日2本書けばいい」
「抜けたらそこで終わり」じゃなくて、
「抜けても、また続ければいい」
そんなふうに思えるようになったのが大きい。
完璧じゃなくていい。
中身がなくても、たった一行でもいい。
“空白にしない”ことだけが、ひとつの目安だった。
そしてもうひとつ。
最初は「誰かに届けたい」とか「発信力をつけたい」と思っていたけれど、
途中からは「昨日も書いたから、今日も書こう」それだけになっていた。
それって、意外と悪くない。
派手なご褒美はないけれど、
続けてきた日々が、じわっと自信になっている。
何かを続けられるかどうかって、
意志の強さじゃなくて、“自分に少し優しくなれるかどうか”なのかもしれない。