| 総合案内 | 0235-24-1048 |
|---|
| ゴミ受付 | 0235-25-0801 |
|---|
| 窓口 | 8:30〜11:45/13:00〜16:30 |
|---|---|
| 電話対応 | 8:00〜12:00/13:00〜17:00 |
| 定休日 | 日・祝・土曜不定休・年末年始 |
明日は地域のお祭りで、その準備に駆り出された。
元々は平日に行われていたこの祭りだが、色々な思惑によってゴールデンウィークに移動された。
観光客を呼び込みたいという意図もあるのだろうし、時代に合わせた判断なのかもしれない。頭では理解できる。でも、現場に立つと、その変化はなかなかに重い。
子供の頃、この祭りは一大イベントだった。
あの独特の高揚感、屋台の匂い、町のざわめき。あの日だけは、いつもの町が別の顔をしていた。
けれど今は、申し訳ないがイベントとしてはオワコンと言わざるを得ない。
その意味や価値を語る人はおらず、形骸化した。
そしてもう一つ、当時の思惑に無かったものがある。
少子化と人口減少、そして核家族化だ。
主力となるはずの子どもと親たちは、ゴールデンウィークの方がむしろ家にいない。
出かける。帰省する。旅行に行く。
かつては学校を休校にしてまで地域全体で行っていたこのイベントも、今では人の良さと義務感で成り立つボランティア頼みと言えなくもない。
やりたい人がやる、というより、やれる人がやる。
その構図に、どこか無理が滲んでいる。
町の入り口に、祖父の寄贈した幟旗が立った。
それでもやはりそれは誇らしい。
祖父がどんな思いでそれを寄贈したのか、今となってはわからない。
ただ、こうして毎年きちんと立っているあたり、この町の律儀さみたいなものは感じる。
それでも祭りは続いていく。
中身が変わっても、形が先に残ることもある。
そしてその形に、あとから意味を探そうとするのが、私たちなのかもしれない。
明日の日曜日から、大型連休に突入する私たちの会社です。
4連休ということになりますが、一部の事業系ゴミ収集スタッフは、連休中も変わらず仕事をしています。
人が動く時、ゴミは出る。
私たちの会社が所在している鶴岡東工業団地は製造業の会社がほとんどですから、連休中はゴーストタウンのようにひっそりしています。
けれどその一方で、観光地、道の駅、ホテル、飲食店はかき入れどき。
人が集まり、にぎわいが生まれれば、その分だけゴミも出ます。
街の活動を止めないためにも、私たちの出番です。
連休中も収集に向かうスタッフがいるからこそ、地域のにぎわいは静かに支えられているのだと思います。
という事で、私も出社して、ゴーストタウンの主として思いっきり仕事をしようと計画しています。
静かな工業団地で過ごすゴールデンウィークも、なかなか悪くないものです。
人が動くところを支える側としての連休。
それもまた、私たちらしい過ごし方なのだと思っています
仕事上のミスというのは、できればしたくないものだ。
これはベテランになればなるほど、役職が上になればなるほど、なおさらそう思う。
経験もある。責任もある。判断も任されている。
だからこそ「間違えない人でいたい」と思ってしまう。
しかし社長もミスをする。
そしてその瞬間、ほんの一瞬だけだが、
できれば隠したいという衝動に駆られることがある。
これは正直なところだと思う。
けれども、ミスを隠すという選択だけはしてはいけない。
小さなミスほど早く伝える。
あっさりと告げる。
しっかり対応する。
そして引きずらない。
これに尽きる。
むしろ社長がそうしている姿そのものが、会社の空気をつくるのだと思う。
ミスを責める会社になるのか、
ミスから立ち上がる会社になるのかは、きっとここで決まる。
ミスをしない人になることより、
ミスを正しく扱える人でありたい。
私には、経営者としても、人としても師匠と呼べる方がいる。
もう亡くなって8年が経つ。
コロナがあり、社会の変化があり、そしてAI革命のような大きな波もやってきた。その節目節目で、何度も思った。
こんなとき師匠だったら、なんと言っただろう。
ここ一年は特に壁にぶつかることが多く、やはり相談できたらなあと、そんな思いが心のどこかにずっとあった。
そんな折、ふと一冊の冊子のことを思い出した。
師匠の奥様からいただいたものだ。師匠が大切にしていた言葉がぎっしりと詰まっている冊子だった。
これまでも何度かページをめくったことはあった。けれどそのときは、「いい言葉だな」と思う程度で、どこか遠くから眺めていたような気がする。
ところが最近改めて開いてみると、裏表紙の一文が目にとまった。
「“朝が来ない夜はない”という諺がありますが、朝が来ない夜を私は行くたびか修羅の中で体験してきました」
その続きを読んだとき、はっとした。
そこに並んでいた言葉は、励ましの言葉ではなかった。
成功者の言葉でもなかった。
どん底で震えていたとき、自分で自分を励ますために書き留めた言葉。
そのひとつひとつが「痛痕の譜」だと記されていた。
なるほどと思った。
強い人の言葉ではなく、震えながら歩いた人の言葉だったのだ。
だからこそ今の自分に届いたのだと思う。
師匠はいない。けれど言葉は残っている。
そしてその言葉は、不思議なことに、今の自分に向けて語りかけてくる。
亡くなって8年経っても、こうして励まされている。
私には、今も師匠がいる。
そう思えたことが、とても嬉しかった。
自分の内側にある「こうしてほしい」という願いを、そのまま相手に向けてみる。
責めてほしいわけではなく、理解してほしい。
否定してほしいわけではなく、認めてほしい。
距離を置かれたいわけではなく、近づいてほしい。
当たり前のことのようだけれど、これがなかなか難しい。気づけば人は、望んでいることとは反対の態度を取ってしまうものだ。理解してほしいのに責めてしまう。認めてほしいのに否定してしまう。近づきたいのに距離を取ってしまう。
人は鏡だというけれど、本当にそうだと思う。
こちらが責める気持ちを持っていると、相手も責めてくる。身構えていると相手も身構える。逆に、少し理解しようとしてみると、不思議と相手も話してくれるようになる。こちらの差し出し方が、そのまま返ってくることが多いのだ。
だから、自分が相手から向けてほしい気持ちを、そのまま先に差し出してみる。
すると状況は驚くほど変わる。劇的に変わると言ってもいい。空気が変わり、言葉が変わり、関係の向きが変わる。その変化の早さに、自分でも少し面白くなるくらいだ。
相手を変えようとすると難しい。でも、自分の向きだけなら変えられる。その小さな変化が、結果として関係全体を動かしていく。
人は皆、優しくしたいし、されたいのだと思う。
強く見える人も、無口な人も、少し距離を取る人も、その奥には同じ願いがあるはずだ。だからこそ、「こうしてほしい」という願いは遠慮せずに先に差し出してみればいい。
人は鏡だという言葉は、相手を責めるための言葉ではなく、自分の関わり方を整えるための言葉なのだと思う。
そう考えるようになってから、人と向き合うことが少しだけ楽しくなった気がしている。
880/1000 リサイクル家電は、直接お持ち込みいただくのがいちばんです
テレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコン。いわゆるリサイクル家電は、「家電リサイクル法」という仕組みによって処分方法が