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面白い記事を読んだ。
近年、ご飯にかける「ふりかけ」の消費量は増えているのに、肝心の「米」の消費量は減っているという。物価上昇や節約志向を背景に、ふりかけ市場は拡大し、販売額は過去最高。一方で、白米そのものを苦手とする子どもも増えているらしい。
ふと、妙な感じがした。
本体に対する苦手から、ふりかけが求められているのか。
それとも、もはや「デフォルトがふりかけ」なのか。
本来は、白米があって、ふりかけがある。
ふりかけは、味を足すものというより、引き立てるものだったはずだ。
けれど使い方次第では、白米の味を感じなくさせてしまう。
それにしても、「本体」が軽んじられていく感じは、どこか他人事ではなかった。
自分自身も、ときどきそんなふうに感じることがある。
役割、肩書き、情報、評価、常識。
日々の暮らしの中で、私たちは無数の“ふりかけ”を浴びている。
気づけば、それがないと味気なく感じる。
けれど本当は、自分の中にも、ちゃんと味はあるはずなのに。
白米が、うまい。
そう感じる瞬間は、たしかにある。
噛むほどに甘みが出て、湯気の匂いと一緒に、身体に沁みてくる。
あの感覚を、私は確かに知っている。
それなのに、日常に戻ると、その感覚をすぐ忘れてしまう。
味がなくなったのではなく、味わわなくなっている。
現代人は、私も含めて、そこが一番鈍っているのかもしれない。
だからこそ、そこに気が付くこと。
目を向けること。
翻って、着飾るよりも、自分磨き。
足す前に、噛む。
盛る前に、味わう。
今日の白米を、ちゃんと噛んでみようと思う。
人は、決めつけて楽になりたい生き物だと思う。
世の中はこういうものだ、自分はこういう人間だ、今日はこういう一日だ。そうやって世界にラベルを貼ると、考えなくて済むし、少し安心もする。
けれど、その決めつけが、あとから自分を苦しめることがある。
世界が狭くなったり、身動きが取れなくなったり、同じところで何度もつまずいたりする。
守るために作った見方に、縛られているような感覚。
それが、最近よく考えている「マインドセット」というものなのかもしれない。
おっかない言葉だと思う。
前向きとか、成長とか、軽やかに語られるけれど、本当はもっと深いところで、ものの見え方そのものを決めてしまう装置だ。
しかも本人は、それを「考え方」だとは思っていない。「現実」だと思っている。
じゃあ、それに気づく瞬間って、どんな時なんだろう。
考えて答えが出るものでもなさそうだ。
むしろ、身体が先に動いたとき。
管理が外れたとき。
そんなことをぼんやり思いながら、今日から一つだけ実験をしてみることにした。
早起き、ではなくて、正確には「二度寝をやめる」。
目覚ましが鳴ったら、考えずに起きる。
パッと起きて、布団から出る。
二度寝って、ほんの数分だけど、あの中には「まだ現実に入らなくていい」という小さな逃げ場がある。
昨日の続きに戻る場所。
もう分かっている世界に引き返す場所。
そこを使わずに、一気に起きる。
それはたぶん、健康法というより、態度の問題で。
今日がどんな一日か決める前に、世界の側に立ってみる、ということ。
起きた直後の部屋の温度。
外の暗さ。
音の少なさ。
マインドセットを「変える」なんて大それたことはできないけれど、
マインドセットが動き出す前の時間に、そっと立ってみることはできるかもしれない。
二度寝をやめる。
それだけのことで、世界の入り口の質感が、少し変わる気がしている。
令和七年一月一日。
私は七つの目標を立てた。
手帳の最初のページに書いたそれらは、正直に言えば、かなりぼんやりしていた。
「こうなったらいいな」という願いと、「たぶん簡単ではない」という予感が、同じ行に並んでいた。
あれから一年。
いや、正確には一年と少し。
その中のひとつが、今日、ようやく“工事”という形になって動き出した。
目標というのは不思議なもので、立てた瞬間には何も起きない。
けれど、頭のどこかに居座り続ける。
新聞記事が急に目に入るようになり、人の話が引っかかるようになり、「たまたま」の顔をした情報が集まり始める。
動き始めてからは早かった。
埼玉へ走り、名古屋へ走り、
会って、聞いて、断られて、また聞いて。
期待して落ち込んで、
「やっぱり無理かもしれない」と何度か思った。
正直、一度は諦めかけたプロジェクトでもある。
現実はいつも、理想より重たい。
数字も、制度も、距離も、簡単には越えさせてくれない。
それでも、不思議と完全には手放せなかった。
そのたびに誰かが言葉をくれた。
具体的な助言だったり、
「面白いですね」という一言だったり、
黙って話を聞いてくれる時間だったり。
自分ひとりだったら、たぶん終わっていたと思う。
多くの人の励ましとサポートに押されるようにして、
気づけばプロジェクトは、現実の輪郭を持ちはじめていた。
そして今日、工事が始まった。
まだ完成ではない。
むしろ、ここからが本番なのだと思う。
しかもこれはゴールではない。
新しい夢を実現するための、ひとつの足掛かりにすぎない。
構想は現場になり、
現場は、次の構想を呼びはじめている。
達成率で言えば、99%くらいだろうか。
残りの1%は、たぶん怖さだ。
本当に形になる瞬間を迎えるときの、あの独特の緊張。
でも今は、それも含めて、ちゃんと味わいたいと思っている。
ぼんやりした目標でもいい。
立てて、忘れずに、動き続けていれば、
人に出会い、場所に出会い、現実が追いついてくる瞬間がある。
今日は、その途中経過の記録として。
当社ではここ数年かけて、事務所の書類をすべて見直してきた。
棚にあるもの、倉庫にあるもの、個人の机の中にあるもの。
部署ごと、担当ごとに分かれていた書類を一度すべて集め、出して、確かめ、分類し直す。
いわば、事務所の「総点検」だ。
全部を取り出して、確かめる作業。
正直に言えば、気が遠くなる。
ファイルを開けては閉じ、束をほどいては分け、また戻して、また迷う。その繰り返しだ。
整理そのものは、根気さえあれば完成する。
やることは単純だ。出して、分けて、決めて、戻す。
時間はかかっても、手を動かし続ければ、必ず終わりは来る。
それでも、ここまで来るのに6年かかった。
やっと、ゴールが見えてきた。
長かったのは、作業ではない。
書類は、ただ黙ってそこにある。責めもしないし、主張もしない。
立ちはだかるのは、いつも人だ。
私たちは、つい書類を「自分のもの」にしたがる。
自分の引き出し、自分のフォルダ、自分しか分からない場所。
それは責任感でもあり、愛着でもあり、ときに不安の裏返しでもある。
しかし、仕事の書類は、本来、誰かの所有物ではない。
みんなで使う情報資源だ。
末の娘の高校受験が近づいている。
学校でも面接練習が始まっていて、
どうやら娘は「模範的な回答」を一生懸命、覚えているらしい。
もっと長く話した方がいいと先生に言われたそうだ。
先生の本意が本人に伝わっているのかは、正直あやしい。
けれど、とにかく長く話せるように頑張っているようだ。
そんな流れで、
家でも「面接官役」を仰せつかることになった。
これまでも、何人かの子どもたちにやってきた。
小林家の面接練習は、ノックして入室するところから始まる。
そこだけは、なぜか本格的だ。
「どうぞ」
と言うと、娘は少し緊張した顔で入ってくる。
……が、照れ隠しか笑ってできない様子。
聞くと、
昔、上の子たちの練習のとき、
なぜだか分からないが、私は大声で怒ったことがあるらしく、それで子供達みんなで隠れた記憶が蘇ったらしい。
私はまったく覚えていない。
けれど子どもたちは、そういう場面だけ、よく覚えている。
気を取り直して面接練習スタート。
質問を投げると、
教科書みたいな言葉が返ってくる。
明らかに目が泳いでいて、
暗記した文章を声に出しているだけで、どうにも心がない。
「……それ、本当にそう思ってる?」
と聞くと、娘は少し間をおいて、
「思ってない」
と、正直に言った。
私は思わず笑ってしまった。
「自分の言葉で話せばいいんだよ。
志望理由が本当に思っているなら『制服が可愛かったから』でもいいんだよ」
そう言うと、娘は少し困ったような顔をして、
でも、もう一度、話し始めた。
さっきより短い。
言い直しも多い。
でも、さっきより、ずっといい。
内容じゃない。
正解でもない。
“その子が話している”感じが、ちゃんとあった。
面接試験の意図というのは分からない。けど見ているのはきっと
自分の言葉で、この場所に立とうとしているか。
それだけだと思う。
そしてこれは、
面接官役をしながら、ちょっと思った。