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今日のブログは、
大人になると「ハイッ」と言えなくなる件について。
大人になると、経験や知識・プライドが邪魔をして素直に「ハイッ」と言えなくなる。
そればかりか、「それは自分にとって徳になるのか?」「意味があるのか?」と、頭で考え始める。
そうなると、否定的な言葉や断る理由のオンパレードだ。
ちょっと話は変わるけど、脳科学者の 西剛志 氏によれば、
物事がうまくいく人とそうでない人の違いを調べると、
うまくいく人ほど「自分は知らない」という謙虚な態度を持っているのだとか。
これは、脳は「それはもう知っている」と思った瞬間に、
それ以上学習する必要はないと判断して思考を止めてしまうため。
逆に「知らない」と思えば、脳は自然とアンテナを広げ、変化の準備を始める。
「知らない」というのは、成長の入り口なのだ。
これと同じように、「ハイ」という肯定の言葉には、
どうやってプラスに働かせるかを脳にプレッシャーとして与える力があるのではないか。
「やる」と言ってしまったからには、脳が勝手に道を探し始める。
あの一言は、未来を動かすスイッチだ。
人間、偉くなるといけない。
知ってる顔をしていると、脳がサボる。
「知らない」と素直に言える人の方が、ずっと伸びていく。
そして私は、
“知らない”を成長の始まりにそして「ハイッ」と言えるかっこいい大人になる!
今朝、通勤路から見上げた 鳥海山 は、6合目あたりまでうっすらと雪化粧をしていました。毎日見慣れた山の姿が白く装いを変えると、それだけで季節の移ろいを実感します。空気は澄み渡り、朝の冷気が頬をかすめる。ああ、いよいよ冬が近づいてきたなと、自然のほうから教えられるような朝でした。山の初冠雪は、私にとって“季節のスイッチ”のようなもの。冬支度への心構えが、ふっと芽生える瞬間です。
そんな朝の空気の中、会社では「クリーン作戦」を実施しました。これは、今週鶴岡市の生活ごみ収集業者12社が一斉に行っている「クリーン作戦Week」の一環です。当社からは26名が参加。工業団地の周辺を手分けしてゴミを拾い集めました。少し肌寒い中でしたが、皆で一列になって歩きながらごみ袋を手に、落ち葉の間まで目を凝らしての作業です。
結果として、集まったゴミの量はわずか500g未満。これは本当に嬉しい数字です。というのも、私は普段からこの周辺のごみを毎朝拾う“ひとりクリーン作戦”を続けてきました。以前はポイ捨ての多い常習箇所もいくつかありましたが、最近は目に見えて減ってきたと感じます。おそらく、地道な積み重ねの成果が少しずつ表れているのでしょう。
澄んだ空気と、白く輝く鳥海山、そしてごみの少ないきれいな道。小さなことかもしれませんが、こうした風景の積み重ねが、私の日常に確かな手応えを与えてくれます。季節の変わり目を感じながら、地域の景色を守る朝の時間。雪の山を見上げ、ほうきを手にするその瞬間に、何とも言えない清々しさがありました。
昨日は、爽やかで抜けるような青空が広がり、中々気持ちのいい天候でした。
我が家では、ストーブを出したり、薪を運んだりと、ちょっとした冬支度。心地よい汗をかきながら、季節の移ろいを肌で感じる週末となりました。
秋といえば、中国の故事に「天高く馬肥ゆる秋」という諺があります。日本では、空が高く澄み渡り、実りの秋を楽しむ――そんな美しい季節を表す言葉として親しまれていますが、元々の意味は少し違っていたようです。
この言葉は、中国北部にいた騎馬民族が、馬を肥やし、空が澄む秋に攻めてくることが多かったことから、「敵襲に警戒せよ!」という注意喚起の言葉だったとか。
「いい時計してますね」という言葉が、実は「そろそろ帰ってほしい」という裏のメッセージだったりするように、言葉というのは表と裏を持つことがあります。
そこに隠された真意をあれこれ考えると、かえってややこしくなってしまうこともありますが、こうした故事に潜む背景を知ると、何気ない一言にも奥深さを感じますね。
今日のブログは、8月のお盆以来となるお墓参りをしたお話です。
世間一般でいえば、2か月ぶりというのは特別“久しぶり”というほどではないのかもしれません。
ただ、私自身は「月に1度はお墓参りをする」という目標を立てていたので、今年は少し足が遠のいていた感覚があります。
その理由は「熊」。
私のお墓は森の中にあり、近ごろはこの辺りでも熊の出没が相次いでいます。
お盆や彼岸の時期を過ぎると墓地はひっそりと静まり返りますから、一人で行くのはちょっとした勇気がいるのです。
これまでは、朝の出社前に立ち寄るのが習慣でした。
でも熊の出現率が高いのは朝夕。そこで今日は日中にお参りしてきました。
お墓の前に立つと、そこには9月の彼岸のときに両親が備えた花が、一輪だけ咲き残っていました。
そして足元に目をやると、見慣れない黄色い小さな花。
茎をたどっていくと、それはお墓の下の地面からすっと伸びていて、調べてみるとシマカンギク(野菊)でした。
花言葉を調べると、「あなたを忘れない」。
ここに眠る祖父母からの「忘れてくれるなよ〜」というメッセージなのか、はたまた「お前のことをいつも応援しているよ〜」というエールなのか、その花の意味するところは分かりません。
けれど、その黄色い花を見ていると、なんとも言えない勇気をいただけるのでした。
「なんか俺、来ている気がする!」――そんな根拠のない自信がふっと湧いてくるのです。
てなことで、お墓で「出たー」と言えば幽霊ではなく熊という時節柄となりましたが、
元気にお墓参りを続けていこうと思うのでした。
今日のブログは、「覚悟」について感じた小さな気づきの話です。
これまでの私にとって覚悟といえば、どこか“崖っぷち”のような場面で必要になるもの――責任とか我慢とか、命懸けとか。とにかく重たいイメージでした。
でも最近、少し違う角度からこの言葉をとらえ始めています。
覚悟って、もっと日常の中に、軽やかに存在していいんじゃないかと。
もっと言うなら、覚悟とは“目的が明確だからこそ”持てる境地。
誰のために、何のために――その目的を心に掲げ続けていれば、覚悟は状況に左右されず、静かに湧いてくる。
覚悟は、目的の隣にあるもの。いつも寄り添い、支えるようにそこにある。
覚悟があるからこそ、やり抜くことができる。
そしてどんな事実であっても、それをポジティブに受け止めるしかない世界が広がる。いや、ポジティブに捉えることが“できる”のです。
心の中心にあるもの。それが覚悟。
レジリエンスという言葉がやたらと飛び交う今の時代。
それを「自分自身で操る力」が求められる現代。
でもその根っこには、必ず覚悟がある。
この覚悟がなければ、レジリエンスはただの理想論で終わってしまう。
だからこそ、覚悟は特別な瞬間に振り絞るものではなく、目的の隣に日常の真ん中で、静かに灯しておくものなんだと思うのです。