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今日は月末の集金日だった。
町を回りながら、改めて周囲を見渡してみる。
すると、いつの間にか看板が外されている店を何軒か見かけた。
「あれ、ここもか。」
ついそんな言葉が口をつく。
営業している時は当たり前の風景だったのに、看板がなくなると急にその存在の大きさに気付かされる。不思議なものだ。
少し寂しい気持ちになった。
しかし、その一方で、新しい店の開店準備をしている場所もあった。まだ看板は付いていないが、内装工事が進み、人の出入りがある。
閉じる店があれば、始まる店もある。
当たり前のことなのだが、その光景を見ていると町そのものが生き物のように感じられた。
生き物は終わることが最初からプログラムされているという。
もし終わりがなければ、新しい命も生まれず、進化も起きなかっただろう。
終わるからこそ、次が生まれる。
町もまた同じなのかもしれない。
昔、経営の勉強をした時に教わった言葉がある。
「企業の目的は顧客の創造である」
ドラッカーの言葉だ。
利益を上げることでも、会社を大きくすることでもない。社会に新しい価値を生み出し、その価値を必要とする人を増やしていくこと。
どんなに歴史のある会社でも、それができなくなれば役割を終える。
逆に、新しく生まれる店は、まだ見ぬ顧客との出会いを信じて挑戦を始める。
看板を下ろした店も、看板を掲げようとしている店も、その姿は違うようでいて、実は同じ流れの中にあるのだろう。
終わりと始まり。
衰退と進化。
それは対立するものではなく、隣り合わせに存在している。
月末の集金日。
車を走らせながら見た町の風景が、妙に心に残った。
そして私たちの会社もまた、新しい看板を掲げ続けられる存在でありたいと思った。
お昼はいつも妻の作った弁当だ。
以前も書いたが、昼に何を食べようか悩まなくていいのは本当にありがたい。朝、何も考えずに弁当の入ったミニトートを持って出勤できる。
しかし、妻の弁当には少し変わった特徴がある。
それは「オプション」が付いていることだ。
バナナの日もあれば、クッキーの日もある。カルシウムウエハースやナッツが入っていることもある。まるで期間限定サービスのように、何かしらのおまけが忍ばせてあるのだ。
そして今日。
ミニトートから妙に長いものが飛び出していた。
「なんだこれは……」
恐る恐る引き抜いてみると、出てきたのはチョコレート味のチョロスだった。
しかも一本丸ごと。
どこで買ってきたのかは知らないが、とにかく長い。
昼休みの事務所で、中年男性が一本のチョロスを持っている姿はなかなかの破壊力である。人目をはばかりながら食べることになった。
だが不思議なもので、こういう予想外のものが入っていると少し嬉しい。
弁当そのものもありがたいのだが、その日のオプションを見るのも密かな楽しみになっている。
明日は何が入っているのだろう。
そんなことを思いながら仕事をしている自分がいる。
弁当箱の外にも、ちょっとした楽しみは詰まっているものだ。
今朝の新聞に、「多死社会 “無縁” の最期」という特集記事が載っていた。
孤独死。
無縁遺骨。
身寄りのない高齢者。
そんな言葉が並んでいた。
ただ、「孤独死」という言葉を見ながら、少し考えてしまった。
今は、いつでも誰とでも繋がれる時代だ。
スマホを開けば、世界中の人と会話できる。
SNSを見れば、誰かの日常が流れてくる。
動画を開けば、無音になることもない。
なのに、人は孤独になる。
いや、もしかすると、繋がりすぎているからこそ、孤独なのかもしれない。
昔は、もっと不便だった。
電話も気軽ではない。
会いに行かなければ顔も見れない。
それでも、人は自然と誰かの家へ行き、縁側で話をし、座布団を出し合っていた。
家には来客用の布団があり、泊まっていく前提の暮らしがあった。
今は違う。
誰にも会わなくても生きていける。
食事も届く。
仕事もできる。
買い物も済む。
便利になったはずなのに、人との接点だけが、少しずつ薄くなっている。
家財整理の現場へ行くと、その変化を感じることがある。
立派な仏壇。
客間。
大量の座布団。
押し入れいっぱいの来客用布団。
それらは、“誰かが来る暮らし”の名残だ。
けれど最近の家には、そもそも客間がない。
来客用の座布団もない。
ましてや布団もない。
合理的で、効率的で、片付いている。
だけれど、人間関係までミニマルになっているようにも見える。
「無縁」という言葉は、単に一人で亡くなることではないのかもしれない。
誰とも関わらずに生きること。
あるいは、誰とでも繋がれるのに、本当には繋がれないこと。
その静かな違和感のことを、時代は「孤独」と呼んでいるのかもしれない。
人との出会いというのは、本当に不思議だ。
数年に一度しか行かないような場所で、なぜかバッタリ会う。
少し立ち話をしただけなのに妙に盛り上がって、そのまま次につながっていくことがある。
冷静に考えれば、ほとんどゼロみたいな確率だ。
あの日、少し家を出る時間が違っていたら。
別の道を通っていたら。
「今日はやめておこう」と思っていたら。
きっと会わなかった。
でも、そういう偶然ほど、人生を静かに動かしていく。
ただ、その出会いが良かったのか悪かったのかは、その時には分からない。
いや、もしかすると最後の最後まで分からないのかもしれない。
苦しかった出会いが、何年も経ってから自分を支えていたと気づくこともある。
逆に、運命のように思えた出会いが、自分を遠回りさせていたと知ることもある。
結局、それを決めるのは出来事そのものではなく、自分の心なのだろう。
けれど、その心をいつもフラットに保つというのは、人間にはかなり難しい。
嬉しい日は舞い上がるし、嫌なことがあればすぐに色眼鏡で見てしまう。
期待もするし、落胆もする。
「こころ」はコロコロと転がる。
昨日まで平気だったことに傷ついたり、どうでもよかった一言に救われたりする。
夕方の風景ひとつで気持ちが変わる日もある。
だから人は、同じ出来事でも、その時々でまったく違う意味を与えてしまうのだろう。
このこころの波がたとえば30年後なんかに大きなうねりになる。
テストが終わって、ようやくゆっくりしている様子だった。
息子はレコードをかけながら、漫画を読んでいた。
流れていたのは、ビル・エヴァンスのライブ盤。
私も隣で一緒に聴いた。
特別な会話があったわけじゃない。
でも、とてもいい時間だった。
昨年、息子の誕生日にレコードをプレゼントした。
その後、プレーヤーとスピーカーも揃えた。
息子と音楽を一緒に聴きたかったからだ。
あれから一年。
息子が初めて自分で買ったレコードが、ビル・エヴァンスのライブ盤だった。
いつもはイヤホンで、一人で音楽を聴いている。
それはそれで今の時代らしい聴き方なのだと思う。
でも、レコードには少し違う空気がある。
針を落とすと、「これちょっと聴いてみて」と、誰かと共有したくなる何かがあるのだろう。
便利さだけならスマホの方が圧倒的だ。
けれど、盤を取り出して、針を落として、スピーカーから音を流す。
その少し面倒な時間の中に、人と同じ空気を共有する余白みたいなものがある気がする。
ビル・エヴァンスを聴きながら漫画を読む息子を眺めていたら、
「こういう時間が欲しかったんだな」と思った。