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カレンダーを見て、しみじみ思う3月31日。
これまで何度も迎えてきたはずの日なのに、今年は少し違う気持ちでこの日を眺めている。
令和7年度。
働いたなあ、と思う。
もちろん24歳から四半世紀、ずっと働いてきた。今さら何をと言われるかもしれない。それでも今年は、「よく働いた」と自分で自分に言ってやりたくなる一年だった。
振り返ってみると、会社のスタッフのために働いた一年だった気がする。
その感覚は不思議と、24歳、社会人一年目の頃とどこか似ている。
あの頃は、とにかく役に立ちたかった。
迷惑をかけていないか。少しでも誰かの仕事が楽になっているか。そんなことばかり考えていた。
「働く」という言葉は、「傍を楽にする」とも言われる。語源として正しいかどうかはさておき、とても好きな解釈だ。誰かの側を楽にすること。それが働くということなのだとしたら、今年は確かに働いた一年だったと思える。
社長になってからは、つい会社の未来や数字ばかりを見がちになる。
売上や利益、仕組みづくり、新しい挑戦。どれも大切なことだ。
けれど今年に限って言えば、少し違った。
目の前にいるスタッフが安心して働けているかどうか。そのことを一番に考えていた気がする。
では――社長の成績表は如何に。
数字で見れば、きっといろいろある。反省も課題もある。
それでももし評価の基準が、「傍を楽にできたかどうか」だとしたら、この一年は悪くなかったのではないかと思っている。
カレンダーの上の3月31日を眺めながら、そんなことを静かに考えている。
また新しい一年が始まるけれど、できれば来年の今日も同じように、「よく働いた」と言えたらいいなと思う。
本日は、とある葬儀社様にて、遺品整理セミナーの講師をさせていただいた。
コロナ前は年に4回ほど開催していたセミナーだったが、その後はずっと開催がなく、今回は久しぶりの再開となった。家族葬へと大きくシフトした流れの中で、これからは中規模の葬儀の獲得も視野に入れていきたいとのことで、今後も定期的に開催したいというお話もいただいた。
ありがたいことである。
しかし正直なところ、私は少し苦笑いしてしまった。
これまで何度も依頼をいただいているが、講師料の話は一度も出たことがない。無料かどうかという以前に、フィーの話そのものが出てこないのである。そのうえ質問コーナーや個別相談まで対応できますか、と言われることもある。
もちろん儲けるつもりはない。ただ気持ちよく仕事がしたいだけである。
これまでの関係の中で、互いに行き来はある。だからこそ余計に、「無料でお願いします」という前提のまま話が進んでいくことに、どこか小さな違和感が残るのも事実である。
講師という仕事は、その場の30分だけの話ではない。そこに至るまでの経験や準備も含めて差し出している時間だからである。
とはいえ、会場に来てくださった方にとっては、その時間は命の30分である。
遺品整理というテーマは、一生のうち何度も向き合うものではない。だからこそ、その一度の機会が役に立つ時間になるよう、できる限りのことをお伝えしている。
そして最後には拍手をいただく講座になる。
その拍手を聞くたびに、この30分には確かな意味があったのだと思う。
だから私は今日も全力で話すのである。気持ちよく仕事ができる関係でありたいと願いながら。
年度末、年度末、年度末。
そう口にしているのは人間だけで、世界のほうは少しも急いでいない。花粉はいつも通り舞い、朝も夜も変わらず巡ってくる。
シニア世代にとっては、もちろんそんな区切りは関係ないのだろう。
そんな時、一本の電話が入った。
「エアコンを外してほしいんだけど」
金額は?いつ来れる?と話は進む。電話番号はナンバーディスプレイで確認できるが、住所がなかなか出てこない。何やら紙を引っ張り出してきて、一生懸命調べながら読み上げている様子が伝わってくる。「大丈夫かな〜」と一抹の不安を感じながらも、金額をお伝えし、日程を決めて受話器を置いた。
ところが数時間後、「やっぱり金額が高いような気がして」とキャンセルの電話。
承知しました、と応じてその件は終わった――はずだった。
そして本日。
「まだ来ないんだけど」
電話の向こうはあのおばあちゃんだった。今日は作業予定日ではないし、そもそもキャンセルになっているはずである。事情を説明すると、「あれ、そうだったっけ」とやわらかく笑う声。
これは先の日程を伝えても難しいかもしれないなと思い、「明日行きますよ〜」とお伝えすると、受話器の向こうから安堵の声が返ってきた。
ああ、よかった。
その一言にすべてが込められているようだった。
こちらは年度末である。予定は詰まっているし、正直なところ「年度末なんだけどな〜」という思いも頭をよぎる。それでも、その声を聞いてしまうと仕方がない。
予定表どおりに動く仕事も大事だが、人の暮らしの時間はそれだけでは測れない。
ということで、明日はおばあちゃんの笑顔を見に行ってこようと思う
末の娘が東京に卒業旅行に出かけた。
この日のためにできる限りのおしゃれを探し、早起きして丁寧にメイクをしての出発だった。
冗談半分で「芸能界にスカウトされるんじゃないか」などとひやかして見送った。
持って行ったのは、私のスーツケースだ。もう買ってから10年以上になる。当時はずいぶん吟味して選んだ記憶がある。その甲斐あって、とにかく壊れない。家族だけでなく、親戚の旅行にまで同行するようになり、すっかり我が家の旅の相棒になった。
仕事柄、処分されるスーツケースを目にすることが多い。まだ新しいのに壊れてしまったものも少なくない。そのたびに、長く使えるものを選ぶことの大切さを教えられてきた気がする。
スーツケースは少しボロボロくらいが、どこか猛者感があっていい。角の擦れや車輪の傷には、これまでの旅の時間が刻まれているように見える。
そのスーツケースが今、末の娘と東京を歩いている。旅の思い出をたくさん詰め込んで帰ってきてほしい。
昨日放映された「ルックバック」を観た。友人から「観るといいよ」とLINEが入り、息子に聞くと『チェンソーマンの作者だよ』と教えてくれた。
秋田県出身で、山形市の東北芸術工科大学の卒業生ということもあり、どこか身近な誇らしさを感じながら観始めたのだが、気がつけば静かに胸の奥を揺さぶられていた。
劇中に描かれる風景にも、どこか東北の空気のような落ち着きが感じられ、それもまた心に残った。
観終わったあと、ふと思った。きっとこの作品は、観た人それぞれの中にいる「藤野」と「京本」を思い出させる物語なのだろうと。友人かもしれないし、先生かもしれない。あるいは仕事の仲間かもしれない。違いを認め合いながら互いの中に住み続ける存在は、誰の人生にもきっといるのだと思う。
私にとっては父だった。
反発もしたし、距離を取りたいと思ったこともあった。それでも気がつけば判断の基準のどこかに父がいる。違う道を選んだつもりでも、その選択の根には確かに父の影響がある。経営の方向を変えようとしたときでさえ、父と向き合う時間でもあったのだと今なら分かる。離れたようでいて、離れきれない関係。それはきっと、友情とも師弟とも違う、もっと深い「一心」の関係なのだと思う。
この作品は、そんな自分の中に生き続けている大切な誰かを、静かに思い出させてくれる素敵な物語だった。ぜひ多くの人に観てほしいと思う。
人生で一番怖いのは、「偉くなること」なのかもしれない。
人は本来、それぞれが尊い存在だ。
だから本当は、誰かより偉くなる必要などないのだと思う。
けれど立場が上がると、「偉さ」というものが静かにまとわりついてくる。
すると不思議なことに、自由に動けなくなる。
弱音を吐きにくくなる。
間違いを認めにくくなる。
人の気持ちに鈍感になる。
そして、人への要求だけが高くなっていく。
それは本当に良いことなのだろうか、と時々立ち止まって考える。
偉さとは、案外、自分をがんじがらめにする鎧のようなものかもしれない。
そんなことを思い出すたび、昔、師匠がよく口にしていた言葉が浮かぶ。
「先生と言われるほど、バカではない」
当時は少し照れ隠しのようにも聞こえたが、今なら分かる気がする。
「先生」と呼ばれる場所に安住しないという覚悟の言葉だったのだろう。
人からそう呼ばれた瞬間に、学ぶ側から教える側へと立場が固定されてしまう。
すると、問い続けることが難しくなる。
けれど本当に大切なのは、学び続ける側に立ち続けることではないか。
偉いと言われることよりも、昨日より少しだけ分かるようになること。
人の話をちゃんと聞けること。
分からないと言えること。
その方がずっと自然で、ずっと自由だ。
だから私は思う。
偉いという鎧など、まず捨て去ろう。
軽くなった分だけ、人に近づける。
そして少しだけ、自分にも正直になれるのだ。
ゴミというものは、いっしょくたに語られがちだが、実にいろいろなことを教えてくれる。
この時期は、鼻をかんだティッシュが多い。花粉の季節だとわかる。
そして今は、引越しゴミのピークでもある。
卒業式も終わったのだろう。
山形大学の学生らしい若者たちが、次々とゴミを持ち込んでくる。
使い込まれた家電や、少しだけくたびれた家具。
数年分の暮らしが、軽トラックの荷台に積まれている。
終わりと始まりが、同時にやってくる季節だ。
では、もうすぐやってくる運動会の季節は、何が教えてくれるのか。
それは、湿布のセロファンだ。
子どもは貼らないだろうから、にわかに頑張ったお父さんの姿が思い浮かぶ。
普段は走らないのに、リレーではつい本気になってしまう。
翌朝、足に違和感を覚えながら、苦笑いで湿布を貼る。
その証拠が、ゴミ袋の中にそっと残る。
学生たちの引越しゴミが「別れ」を運び、
湿布のセロファンが「奮闘」を伝える。
どちらも、ほんの一瞬の出来事なのに、
ゴミはそれをきちんと受け止めている。
誰にも気づかれないかもしれないが、
確かにそこには、人の暮らしがある。
そんな季節が、またやってくる。
ゴミは偉いのだ。
人生というのは、なかなか面白い。
先日、妻がふと
「なんか当たる気がするんだよね」
と言い出して、人生で初めて宝くじを買ってみた。バレンタインジャンボ。
正直、ほとんど期待はしていなかった。
ところが昨日、結果が発表されて、何気なく確認してみると——
3等、五万円。
思わず二度見した。
ありがたいな、と素直に思う。
…と、ここまではよかったのだけれど。
同じ日、もう一つの知らせが入る。
娘がインフルエンザB型。
友人と楽しみにしていた卒業旅行。
それが、まさかの延期(キャンセル手続きの嵐)。
五万円の当たりと、旅行の延期。
こういう時に思い出す言葉がある。
禍福は糾える縄の如し。
そして人間万事塞翁が馬。
良いか悪いかは、今はまだ分からない。
どちらも、途中の出来事だ。
裏も表も、全部ひっくるめて人生。
私には
「賛成の反対なのだ。」
という、バカボンのパパの名言がしっくりくる。
昨日は久しぶりにお墓参りに行ってきた。
以前は月に一度は行くようにしていたのだが、昨年、庄内でも熊の出没が話題になってからというもの、つい足が遠のいてしまっていた。
もし出くわしたらどうしよう。
そんな理由をつけて、気がつけば半年も経っていた。
久しぶりのお墓は、特に変わった様子もなく、静かにそこにあった。
花を供え、手を合わせる。
たいしたことはしていないのに、不思議と心が少し整う。
やっぱり、こういう時間は大切なのだと思う。
その足で、クローゼットの整理もしてみた。
季節の変わり目ということもあり、薄手のコートやレザーバッグなど、最近出番の少なくなったものをまとめてリユースショップへ持ち込んだ。
結果は、およそ二万円。
思ったよりいい値段がついた。クローゼットの中もすっきりして、ちょっとしたお小遣いまで生まれるのだから悪くない。
季節の変わり目にリユースショップを活用するのは、なかなか良い方法だと思う。
減らした分、新しいアイテムとも出会える。ということで、吟味に吟味して、新しいブリーフケースを買うことにした。
物は増やすだけでは、暮らしは重くなる。
ときどき減らして、風を通す。
そうすると、不思議と次の出会いも入ってくる。
半年ぶりのお墓参りと、クローゼットの整理。
やったことはどちらも「少し整える」ということなのかもしれない。
春は、そんな小さな入れ替えをするには、ちょうどいい季節だ。
人は歳を重ねると丸くなる、と言う。
自分はどうだろうかと考えてみる。
プライドがなくなったかというと、きっとそんなことはない。
量は昔と同じなのだと思う。
ただ、扱い方が少し変わった気はしている。
昔は小さな鍋で煮ていたから、
すぐに煮立ってしまった。
今は少し大きな鍋になったのかもしれない。
それともローリエを一枚入れて、臭みを取る調理法を覚えたのか。
どちらにしても、
少し扱いやすくなった気はしている。
対人関係の中で、
自分の小さなプライドに気づくことがある。
特に、自分がどこかで下に見ていた人から
指摘されたときだ。
その瞬間、心の中で反発が生まれる。
「そんなこと言われる筋合いはない」
そんな気持ちが一瞬よぎる。
でも同時に、
「ああ、今いいカッコしようとしたな」
「いらないプライドだな」
そう気づく自分もいる。
プライドそのものは、きっとなくならない。
ただ、それを認知できるかどうか。
それが大事なのだと思う。
気づけば、少し修正できる。
気づかなければ、そのまま反応してしまう。
整理の仕事をしていると、
整えるとは、物を減らすことだと思われがちだ。
しかし本当は違う。
まずは
そこにあることに気づくこと。
そこから整えることが始まる。
人の心も、
案外同じなのかもしれない。
ブルーワーカーの時代が来るとは思っていなかった。
若い頃、世の中にははっきりとした空気があった。
頭を使う仕事が上で、体を使う仕事は下。そんな見えない序列のようなものだ。
特にゴミの仕事は、その中でも下に見られていた感が強かった。
今なら言葉を選ぶ人も多いだろうが、当時は普通に差別のようなものもあった。
子供の頃は、それを強く感じていた。
恥ずかしいというよりは、
相手がどうしても偏見を持ちたがる。
そんな空気を子供ながらに感じ取っていた。
そして後になって知ったのだが、
この仕事をしていることで、子供が学校で嫌な思いをする。
それが理由で仕事を辞めたスタッフもいたと聞く。
それほど、この仕事は世の中から低く見られていた。
これまで映画やドラマでも、
この仕事は「行くところがない人がやる仕事」のように描かれることが少なくなかった。
それに関しては、正直なところ我慢ならない。
社会は必ずゴミを出す。
そしてそれを回収し、分別し、資源として循環させる人がいなければ、
社会は一日たりとも回らない。
つまりこの仕事は、社会の裏方ではあるけれど、
社会を支える基盤の仕事でもある。
最近はAIの話題をよく耳にする。
文章を書き、資料を作り、データを分析する。
これまでエリートと呼ばれてきた仕事の中には、AIに置き換わっていくものも増えていくだろう。
では、現場の仕事はどうだろう。
重たいものを持つ。
現場の状況を見て判断する。
人と話しながら段取りを組む。
こういう仕事は、簡単にはAIに代われない。
ブルーワーカーの時代。
そんな時代が来るとは思っていなかった。
だから私は、この仕事をもっと磨いていきたいと思う。
胸は張る。
だが、威張るのとは違う。
社会の循環を支える仕事を、
静かに、誇りを持って続けていく。
昨日は息子の英検の面接試験の送迎をしていた。
英語の試験といっても、筆記ではなく面接だ。英語力だけではなく、コミュニケーションとして成立するかどうかを見られる試験らしい。
前回は不合格だった。理由は「態度」。
英語の内容ではなく、評価項目の態度で減点されたということで、息子的には少し納得がいかなかったようだ。
そこで今回は対策を考えたという。
相手の目を見て話す。
手を机の上に出して組む。
そして、自信がある自分を精一杯演じる。
なるほど、と思った。高校生なりに面接というものを観察し、どう振る舞えばよいかを考えたのだろう。
服装は自由ということで彼は、ライトグレーの太めのスラックスに黒のVネックで出かけようとした。それでも悪くはないが、私は少し気になった。
「襟付きの方がいいんじゃないか」
面接というのは内容だけではなく、その人がどう見えるかという総合力が問われる。襟があるかないかだけでも、マナーを知っている人なのかという印象が変わるものだ。
このぐらいの男子に服装のことを言うと、たいてい反抗される。しかし息子は特に文句も言わず、ボタン付きの襟付きニットに着替えてきた。
試験が終わり、迎えに行くと、車に乗り込んできた息子は少しだけ表情が明るい。
「どうだった?」
「うん、今回は手応えあった」
結果はまだ分からない。
社会に出ると、人はさまざまな場面で役を演じる。
営業なら営業の顔、講師なら講師の顔。最初は演技のようでも、やがてそれが自分の型になる。
自信というのは、最初からあるものではない。
こうして少し背伸びをして、自信のある自分を演じるところから始まるのかもしれない。
今週も土曜日は会社はお休み。
令和8年の3月は基本的に土曜日が休みですが、21日だけは営業日となっています。
とはいえ、完全に休んでいるわけではありません。
お見積もりなどは、できる限り対応しています。
そんな訳で、本日も一件、お見積もりに行ってきました。
最近ご相談が多いのが、90代の男性のお宅の整理です。
今回の目的はとてもはっきりしていました。
転倒の防止。つまり動線の確保です。
高齢になると、ちょっとした段差や物の多さが事故につながります。
だからまず行うのは、物量のコントロール。
つまり、必要以上に増えた物を減らすことです。
ただ、ここで終わらないのが整理の仕事です。
物が減ると、本当に必要な物が見えてきます。
それらを
・使用するシーン
・使用頻度
・使う場所
といった視点で分類していきます。
毎日使うもの。
外出のときに使うもの。
来客のときに使うもの。
季節で使うもの。
そんなふうに、暮らしの場面と頻度の両方から整理していく。
そして分類ごとに収納を整えていきます。
本日のご相談は、収納の提案までという内容でした。
単に物を捨てるというご依頼よりも時間はかかります。
けれど、こうして整えた環境は
リバウンドしにくく、使いやすく、何より安全です。
整理とは、物を減らすことだけではありません。
暮らしの動線を整える仕事。
そんなことを改めて感じた一日でした。
ビジネスというものを、もし200年という時間で考えたらどうなるだろう。
そう思うと、少し面白くなる。
今、私たちが必死に取り組んでいる仕事のほとんどは、きっと200年後には存在していない。会社も、商品も、仕組みも、社会の形すらも、きっと大きく変わっているはずだ。
200年前の人たちが必死にやっていた仕事を、今の私たちはほとんど知らない。それと同じことが、これから先にも起きるのだろう。
そう考えると、なんだか肩の力が抜ける気もする。
しかし不思議なことに、日々の仕事はそう簡単にはいかない。
目の前には、今日決めなければならないことがある。
人のこと、会社のこと、未来のこと。
一つひとつ、とことん悩む。
たぶん、その繰り返しが仕事なのだろう。
200年後には残らないかもしれない。
それでも、今日という一日は確かにある。
その一日の中で、悩み、考え、決める。
その積み重ねが、会社という形になり、仕事という形になり、誰かの暮らしにつながっていく。
200年という時間の中では、ほんの一瞬の出来事なのかもしれない。
それでも、その一瞬を真剣に生きる。
ビジネスというのは、案外そんな営みなのかもしれない。
昔、ゼミの先生から教わった言葉がある。
「必殺技は一つでいい。」
名だたる格闘家といえど、決め技は一つ。
その技が最大限活きるフィールドにどう持ち込むか。
勝負はそこから逆算して組み立てられている。
最近、その言葉を思い出している。
私の必殺技は何かと問われれば、
それはおそらく“フットワーク”だろう。
物理的にも動くし、決断も早い方かもしれない。
滞ると、どうにも気持ちが悪い。
止まるくらいなら、多少粗くても進みたい。
初動が早い人とは呼吸が合う。
安心するというより、加速できるからだ。
ただ、その一方で反省もある。
PDCAを回しているつもりが、
Pが薄いままDに入っていることがある。
あるいはDばかり重ねてしまうことも。
そんな時に立ち返るのが、
ゼミで教わったバイブルだ。
『ビジネスプランニングの達人になる法』
恩師、志村勉先生の一冊。
新しいことを始めるときは、
まずナビフレームに落とす。
これが私の習慣になっている。
フレームワークは、足枷ではない。
むしろ発射台だ。
感覚だけで走るのではなく、
いまどこにいて、どこへ向かうのかを確認する。
ほんの数分の整理で、
Dの質が変わる。
若い頃は理論として読んでいた本が、
今は経営の武器として迫ってくる。
同じページなのに、刺さり方が違う。
必殺技は一つでいい。
だが、技を当てるための“型”は必要だ。
フットワークという武器を磨きながら、
ナビフレームで方角を確認する。
加速するために、立ち止まる。
このバランスが、
いまの私のテーマなのかもしれない。
今日から三月。
息子を高校の卒業式へ送っていった。彼は在校生として参加、校門には晴れ着姿の父母が並び、春の光が少しだけまぶしい。進路がまだ定まらない生徒も多いのだろう、祝賀一色というより、未来へ向かう静かな緊張が漂っていた。
「終わり」と「始まり」が同時に立ち上がる日。
家に戻ると、徒歩1分、実家の母主催のひな祭り的食事会。八段飾りのお雛様が八畳間を堂々と占領している。整然と並ぶ人形たちは、何十年も同じ姿で、しかし毎年違う家族の時間を見守っている。
小林家のグループLINEには、その様子が流れてくる。離れて暮らす娘たちも、同じ春を共有している。
新しいという言葉には、不思議な高揚感がある。四月、新年度、真っさらな計画。まだ何も起きていないのに、可能性だけが膨らんでいる。
けれど考えてみれば、生き物は「新しくなる」ために、死ぬことを組み込まれているという。環境が変化する地球で進化を続けるため、個体は必ず終わりを迎える。終わるからこそ、更新できる。
卒業も同じだ。今の立場が終わるから、次の場所が生まれる。
三月は、その設計図を書き換える時間なのだろう。やり残したことを整え、土台を固める。古いやり方を一度手放し、新しい年度に備える。
終わりも素晴らしく、始まりも素晴らしい。
希望と覚悟。
新しい四月を、ただ待つのではなく、迎えにいく三月でありたい。