906/1000 「ワンツー・ワンツー」が聞こえていた頃
2026/05/19
最近、子供の頃のことをよく思い出す。
私が育った街には、よく移動販売が来ていた。
八百屋や焼き鳥屋、北海道直送の牛乳屋。今思えば、小さな商店街が、そのまま住宅街を巡回しているような時代だった。
そして彼らは決まって音楽を鳴らしながらやって来る。
遠くから聞こえてくるメロディーで、「あ、来た」と分かるのだ。
中でも強烈に覚えているのが、水前寺清子 の「三百六十五歩のマーチ」。
暗くなり始める頃、遠くからあの軽快なリズムが聞こえてくる。
“ワンツー、ワンツー”
すると子供だった私は、なぜかそわそわした。
窓の外を見たり、外へ飛び出したり、「今日は何を売っているんだろう」と胸を躍らせたり。
結局、その車が何屋さんだったのかはよく覚えていない。
けれど、「ワンツー・ワンツー」のリズムだけは、今でも身体が覚えている。
今思えば、あれは物を売りに来ていたというより、“夜の入り口”を知らせに来ていたような気もする。
夕焼けが少しずつ青に変わり、家々の明かりが灯り始める頃。
どこか遠くで犬が吠えて、台所からは夕飯の匂いが漂う。そんな街の空気の中を、「三百六十五歩のマーチ」が妙に陽気に流れていた。
今は、しんと静かな街だ。
あの頃のように、音楽を鳴らしながら走る移動販売車もほとんど見なくなった。
窓を開ければ誰かの気配がした街は、ずいぶん静かになった。
便利にはなったのだと思う。
欲しい物はすぐ届くし、わざわざ外へ出なくても暮らしていける。
だけれど、あの「ワンツー・ワンツー」と聞こえてきた夕暮れの高揚感は、もうどこにもない。
子供たちの声。
夕飯の匂い。
西日の色。
家へ帰る時間の空気。
一番戻りたい時代とは、案外ああいう、何でもない夕暮れだったりするのかもしれない。

