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春の足音とともに、また総会シーズンがやってきた。スーツに身を包み、時間通りに集まる人々。議題は例年通り、進行も滞りなく。配布された資料には一応目を通すけれど、正直、内容は大きく変わらない。質疑応答も、予定調和のように短く収束する。
そして、その後に待っているのは、懇親会という名の“お付き合い”の場。名刺を交換し、「お久しぶりです」と笑顔を交わす。数年前、コロナの影響でこうした集まりが軒並み中止になっていた頃には、「正直、なくても困らないかも」と思っていた。むしろ、予定が空いてホッとしたくらいだった。
でも、いざ元通りに再開されてみると、「ああ、この人に会うのも久しぶりだな」と、顔を見て自然に笑みがこぼれている自分がいる。特別に親しいわけではないけれど、ここでしか会えない、ここでしか話さない人たち。何気ないやりとりの中に、ちょっとした懐かしさや安心感が滲んでくる。
たしかに、すべてが必要だとは思わない。惰性で続く「お決まりのパターン」には、見直す余地があるとも感じている。コロナ禍という一時停止の時間を経て、本当はもっと柔軟な形を模索することもできたはずだ。けれど、慣例を変えることはそう簡単ではない。「変えよう」と声を上げることには、思っている以上に勇気が要る。長年続いた空気は、一人の力ではなかなか揺るがない。
だから結局、今年もまた時間通りに集まり、議事をこなし、「お疲れさまでした」と拍手をする。ほんの少しの違和感を胸に抱きながら。でもその帰り道、「やっぱり、顔を合わせて話すっていいな」と、ふと感じる瞬間もある。
変わらないことの安心と、変えられないことへのもどかしさ。そしてその間にある、小さな喜びや再会の温かさ。そんなものが入り混じった春の一日が、また静かに過ぎていく。
気持ちがざわつく・ガサガサする日は、整理をする。理由がはっきりしなくても、なんとなく落ち着かない日こそ、身の回りを整える。
ほんの少しのイライラや、細かいことが気になって仕方ない日は、片づけのタイミングだ。書類をまとめ直す。読み終えた本を本棚に戻す。たったそれだけでも、頭の中にスペースができる。
整理をすると、小さな達成感が生まれる。目に見える部分が整うと、気持ちも落ち着いてくる。ああ、自分はちゃんとやれている。そう思えるだけで、次の一歩が少し軽くなる。
今日はできなかったけれど、側溝掃除をしようと思っていた。冬の間に詰まった泥を掻き出して、水の流れを戻す作業。目立たないし、面倒にも感じる。でも、やってみると意外なほど気持ちがいい。詰まりが取れて、水が流れ出す音を聞くだけで、自分の中までスッと通る気がする。
片づけも掃除も、自分の調子を整えるための習慣だと思う。暮らしの中で、気づかないうちに溜まっていたものを、少しずつ手放していく。心の中に静けさを取り戻すために、余白をつくる。
毎日をうまくやりくりしているつもりでも、知らないうちに抱えすぎていることがある。だからこそ、気持ちがもつれそうな時は、まず身の回りから整える。モノを手放すことで、余計な考えや感情にも距離を置けるようになる。
「手放すと楽になるのは分かっているのに、どうしても手放せない。」
そんな場面に、私は何度も立ち止まってきた。自分の中にある「こうでなければ」というこだわり。ときにそれは、理想や信念として私を支えてくれるけれど、反対に人との間に壁をつくったり、自分自身を苦しめたりもする。
たとえば、仕事のやり方や生活のスタイル。こうあるべき!とかこうありたい!という想いの強い私は、周囲の人とテンポが合わずに戸惑うことがある。心の中では「もっと柔軟になったほうがいい」と思いながらも、こだわりを手放すことに抵抗があるのだ。それはまるで、自分らしさを手放してしまうような感覚にも近い。
けれど、すべてのこだわりが悪いわけではない。問題は、そのこだわりが自分や周囲を縛りつけるような“固さ”を持ってしまったとき。大切なのは、こだわりを持つことそのものではなく、それを「どう扱うか」なのだと思う。頑なに握りしめるのではなく、手のひらにふんわりと載せて、必要なときにだけ使う。そんなバランス感覚が、今の私には必要だ。
こだわりを持ちながらも、状況や相手に応じて柔らかく動く。そこには少し勇気が要る。でも、頑固さを手放すことは、自分自身を否定することではなく、自分をより自由にしてあげることでもある。そう思えるようになったとき、対立の中にも少しずつ余白が生まれてくる。
最近、『宇宙兄弟』にハマっています。15年以上前に連載が始まった漫画ですが、物語の舞台はまさに“今”——2025年。そんな時代設定も相まって、不思議と現実の自分の暮らしや価値観と重なる部分が多く、ぐいぐい引き込まれています。
物語は、子どもの頃に「一緒に宇宙飛行士になろう」と誓った兄弟が、大人になって本当に宇宙を目指すというストーリー。弟のヒビトはすでにNASAの宇宙飛行士、そして兄の六太がJAXAの選抜試験に挑戦するところから物語が本格的に動き出します。
今私が観ているのは、六太が第三次選抜試験に挑むシーン。宇宙船を模した閉鎖空間で二週間、他の受験者たちと共同生活を送りながら、判断力や協調性、そして人間性を試されるという、精神的にも身体的にも過酷な試練です。
このシーンを観ながら、ふと感じたのは、「これって、私たちの日常とそう変わらないのでは?」ということ。職場という名の“閉鎖空間”でのチームワーク、家庭という小さな社会での役割分担。限られた人間関係の中で、それぞれが役割を担いながら成果を出し、日々を回していく。その過程には、時にストレスもあれば、理解し合うための努力も必要で、誰かとの衝突も避けられない。
だからこそ、六太の姿勢が心に残ります。失敗しても、自信がなくても、周囲の人と向き合いながら、地に足のついたまま夢を追い続けるその姿に、勇気をもらえるのです。宇宙という果てしない世界に向かって進んでいく物語の中で、描かれているのは、実はとても現実的で身近な「人との関わり方」なのだと気づかされました。
仕事で名古屋に来たこの機会に、少し足をのばして伊勢神宮へ参拝してきました。最初は内宮だけを訪れる予定だったのですが、取引先の方から「伊勢では外宮から内宮へまわるのが正式な順番なんですよ」と教えていただき、せっかくならと早朝5時に外宮から参拝を始めることにしました。まだ町が静まり返っている時間帯、澄んだ空気のなかを歩きながら、朝の光に包まれるように内宮へ。五十鈴川の清らかな流れと、神域の空気に触れていると、自然と呼吸もゆっくりになっていくようでした。
伊勢神宮を訪れるのは、実は今回が二度目。最初は小学校6年生の春休み、祖父母に連れられて訪れた思い出があります。観光地というより、「特別な場所」という雰囲気に少し緊張しながら、祖父母のあとを歩いた記憶。建物の印象はほとんど残っていないのに、不思議と覚えていたのが、深くて暗い森と、空を遮るほどに高く伸びた木々。そのときの感覚が、今回外宮を歩いていて「ああ、この風景だったんだ」と、ふっとよみがえってきました。
あの頃の私は12歳。今はもう人生の折り返し地点を過ぎ、祖父母もすでにこの世にはいません。それでも、あのとき私が感じていた空気や風景が、変わらずそこにあることに、静かに胸を打たれました。あの森の中で、手を引かれて歩いた私と、今ひとりで歩く私が、どこかで重なるような不思議な感覚。